〈第100回全日本仮装大賞きょう〉欽ちゃん・萩本欽一「僕が教えたいのは『マヌケ学』。ダメなヤツほどダメじゃないんだ」 | AERA dot. (アエラドット)

萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年、東京都生まれ。66年、7歳年上の坂上二郎と「コント55号」を結成。国民的な人気となる。その後、ソロ活動。「いい若いヤツがいたら『欽ちゃん』の名前をあげたい。でも、そこまでがんばろうってのがいなくてさ。時代が違うんだね」。(撮影/写真部・小原雄輝)

この記事の写真をすべて見る「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」(日本テレビ系)が13日放送される。1979年にスタートし、今回は記念すべき第100回大会。国民に愛される番組の立役者といえば司会の萩本欽一さんだ。その萩本さんの半生を改めてふりかえる(この記事は2018年5月25日に配信した内容の再掲載です。年齢や肩書などは配信時のままです)。

あのとき、別の選択をしていたら──。人生に「if」はありませんが、誰しもやり残したことや忘れられない夢があるのではないでしょうか。著名人が「もう一つの自分史」を語ります。今回はコメディアンの萩本欽一さんです。

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子どもは男が3人。それなりにユニークに育ったかな。でも、たくましいところがないんだよね。あるとき、息子に「なあお前、一発勝負してやろうって気はないの?」って聞いたら、「普通がいいよ。普通というのは、たいへん素晴らしいことですよ」って諭されちゃった。

コメディアンとして、変わった家庭を作らなきゃっていう気持ちが少しあったからかな。僕ね、もう一回、人生をやるとしたら、普通に会社勤めをして〝マイホームパパ〟をやってみたいの。奥さんは夫を立ててくれて、子どもたちもお父さんを尊敬してる。家族サービスも思いっきりするし、家族旅行も行っちゃう。

実際の萩本家? もう、ぜんぜん。子育ては奥さんに任せっきりで、番組を作るのに忙しくて家にはあんまり帰らなかった。子どもが小さいとき、たまに家に帰って子どもと遊ぼうとしても、なんかしっくりこないんだよね。子どものほうが気を使ってるみたいでさ。奥さんにも「あなた、無理しなくていいから」なんて言われちゃった。

後悔してるわけじゃないんだよ。仕事が好きなら思いっきりやればいいわよっていうスタンスでいてくれたことには、とっても感謝してる。もっといいパパになってちょうだいと言われてたら、プレッシャーでどうにかなってたかもしれない。

僕は今でも、家族の旅行に連れていってもらえない。僕をのけ者にしているんじゃなくて、芸能人といっしょだと、見えを張っていいホテルに泊まったりするから、わずらわしくて嫌なんだって。

戦時色が色濃くなってきた1941年に、東京・台東区の下町で生まれた。戦時中は浦和に疎開。当時は父親のカメラ会社が好調で羽振りがよかった。だが、戦後次第に会社は傾き、下町の長屋に舞い戻る。

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浦和の家はそのころは珍しい洋館風で、広い庭があって、お手伝いさんもいて「欽一お坊ちゃま」なんて呼ばれてたんだよね。会社がうまくいっているころのおやじは、子どもたちに会社を継がせて事業を大きくしようと思っていて、長兄は次の社長、次兄は大学の工学部に進ませて工場長、僕には商学部を出て営業担当の重役になれって、しょっちゅう言ってたなあ。

でも、戦後しばらくして会社が傾き、小学校4年生のときに浦和の家を売っぱらって、また下町の長屋に戻ってきちゃった。それから、おやじの会社はますます傾いて、人手に渡っちゃった。もし、会社が好調に続いて、僕は大学に行って、おやじの会社に入っていたら、それこそマイホームパパになってただろうね。

東京の下町に生まれて、浮き沈みがあって、また下町で過ごしたっていうのは、最高にラッキーだったと思っている。僕はあそこで人生とはどういうものかを教わった。

中学時代、借金取りに土下座するおふくろの姿を見たとき、決意したんだ。「お金持ちになるぞ」と。それが、コメディアンを目指すきっかけ。

あの町じゃなくて、どこか静かなところに生まれていたら、芸能界の激しい動きについていけなかったかもしれない。そもそもコメディアンになっていないよね。

でも、おふくろは、僕がテレビで有名になっても、「あんなに人に笑われて恥ずかしい」ってずっと言ってた。お笑いとか、まったくわかんない人だったんだよね。98年に長野オリンピックの閉会式の司会をしたとき、初めてホメてくれたなあ。

80年代前半には『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『欽ちゃんの週刊欽曜日』が軒並み超人気番組に。「視聴率100%男」と呼ばれる。

がむしゃらに突っ走っているころから、テレビっていうのは、45歳が限界かなって思ってたのね。

もうすぐ44歳になる85年に、休養宣言なんてしちゃった。まだそれなりに人気番組だったけど、ピークに比べたら視聴率も下がり始めたんだよね。でも、周りはピークの数字を要求してくる。

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いつまでも「欽ちゃん」でいられなくなってきたのも、自分としてはいやだなあって感じてたんだ。いつの間にか「大将」になっちゃった。自分らしくない、すごいニセモノが歩いている感じがした。

いろんなことに疲れちゃって、休養って言うとカッコいいけど、逃げたんだよ。僕のモットーは、勝つか逃げるか。あれ以上やっていたら、自分を嫌いになっていたかもね。

テレビには、声がかかればたまに出ることはあるけど、僕はテレビに出ることが好きなわけじゃない。番組を作るのが好きなの。

●留年じゃない延長戦なんだ

2015年4月、73歳で駒澤大学仏教学部に入学。この春から4年目の学生生活を送っている。それはやり残した「人生の忘れ物」であり、心の片隅にあった〝普通の人生〟の歩み直しなのかもしれない。

まさか自分が大学生になるとは思っていなかったけど、70歳を過ぎて「よし、入ろう!」と思って、がんばっちゃった。おやじやおふくろが生きていたら、なんて言ったかな。おふくろは「やっと真面目な道に進んでくれたのね」って喜ぶかもね。

今まさに、もう一つの人生を送っているのかもしれない。忘れてきた人生が、目の前に現実の光景としてあるんだよね。

毎日、キャンパスを歩くのが楽しくて。雨で傘がないと、知らない女子学生が「ぬれるわよ」って入れてくれる。僕が欽ちゃんだからじゃない。困っていそうな年配者に対して、そういうことをスッとできる空気がある。世間とちょっと違うんだよ。

こんな楽しいところ、4年で出ちゃったらもったいないからね。まだしばらく卒業する気はないよ。同級生には「留年したって言うな。延長戦なんだ」って言ってる。僕は単位がほしいわけじゃないから、いい成績を取れそうにないテストはパスするの。先生に失礼だからね。

でも、勉強っていいね。やればやっただけ結果がついてくる。テストにしたって、ゴールが見えているからそこに向かってがんばれる。テレビの番組作りは、何が正解で、どうがんばればいいのか、さっぱりわからないままやってきたからね。

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欽ちゃん2025/01/13/ 19:30

石原壮一郎

学校って、知識を得るだけの場所じゃない。人間として必要なこと、生きていく上で大切なことに気付かせてくれるって役割もあるよね。

学部を卒業したら、大学院に進む予定だ。教壇に立って学生たちに自分の考えを伝えたいと思っている。

大学の人に、「大学院に行けば、教壇に立てますよ」って言われたの。面白そうだよね。ぜひやってみたい。そのころ僕は、いくつかな。えーっと、ま、そこはいっか。

僕が教えたいのは「マヌケ学」。人間はマヌケでいいんだ、マヌケをマヌケとして伸ばしていこうって話。最近はちゃんとしていないと許されないみたいな雰囲気があるけど、「愚者一得」っていうことわざがある。自分がマヌケだったから、マヌケだからこそ人がやれないことをやれるんだって言いたい。マヌケ大好き、ダメなヤツほどダメじゃないんだって言ってくれる人間がいれば、自分はダメだって思い込んでいるヤツの人生は、きっと変わるよ。

(聞き手・石原壮一郎)

週刊朝日 2018年5月25日号

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