3人の息子とアルバムをめくり、震災で亡くなった父のことを話す高橋朗さん(右端)。息子は左から幸太さん、太一さん、一生さん=神戸市長田区(撮影・大田将之)
神戸市長田区の会社員、高橋朗さん(40)は小学5年生のとき、阪神・淡路大震災で父を失った。「子どもたち3人を頼む」-。父が言い残したという最期の言葉を胸に抱き、この30年を生きてきた。あのときの父と同じように、今の朗さんには3人の息子がいる。17日は地震発生時刻の午前5時46分に合わせ、親子で手を合わせる。
朗さんは3人兄弟の末っ子。1995年1月17日のあの朝は同区日吉町の自宅で寝入っていた。パン職人の父、修さん=当時(39)=は自宅から100メートルほど離れた若松町で祖父とパン店を営んでいた。仕込み作業に追われていた早朝、激震が襲う。
母が様子を見に行った。3人兄弟は自宅で身を寄せ合っていたが、窓から煙が見えた。「火、出とるぞ」との声も聞こえる。パン店の方向だ。兄弟は家を飛び出した。途中、手足から血を流した祖父に会った。
「朗君、ごめんな。お父さん、死んでもうた」
倒壊した店の下敷きになり、動けなくなった父はそのまま火災にのまれたという。数日たって、焼け跡で遺骨を拾った。
近所でもたくさんの命が失われた。「自分だけじゃない」と自らを慰める一方で、父の死を信じたくない自分もいた。「もしかしたら、どこかに逃げてるかもって。その年の秋くらいまで、ずっと父ちゃんを捜していた」
看護師の資格を持っていた母は病院で働き始めた。朗さんは、机に医療関係の本を何冊も並べ、勉強していた母の姿を覚えている。
兄弟は、地域の人たちにかわいがられて育った。消防団に、子ども会にと地元で駆け回っていた父のおかげだろう。
社会人になり、2007年に結婚。11年に長男を授かり、中学生から幼稚園児まで3人の子に恵まれた。父が自分にしてくれたように息子と将棋を指し、釣りに行く。地域の子たちにはサッカーを教えている。
長男幸太さん(13)が小学5年生になると、朗さんは震災の話をした。自分が父を失った年。伝えなくてはと思った。「いつどこで大切な人がいなくなるか分からない。今日、明日、1時間後かもしれない。だから後悔しない言葉、態度を心がけてほしい」。1月17日は地域の追悼行事に息子たちを連れて行った。
朗さんの胸には父の最期の言葉がある。火の手が迫る中で死を覚悟し、「助けて」ではなく、「子どもを頼む」と言った父。その言葉を受けて、自分たちを懸命に育ててくれた母。ありがたいと思う。すごいと思う。
次男の太一さん(11)も小学5年になった。父が亡くなった場所近くにある震災慰霊碑へ、きょうは子どもたちと行く。そして、あの日のことを語るつもりだ。(中島摩子)