吉野の山を思わせる花、花、花 「一目千本」
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。第3回では蔦屋重三郎(蔦重、横浜流星さん)が初めて「自分の本」を出版するまでが描かれました。女郎たちを流行の生け花に見立てた「一目千本」です。本の制作をめぐり、蔦重と河岸見世の女郎たちとの励まし合いが印象的でした。
本の制作費から捻りだした金で、貧乏な女郎たちに炊き出しをした蔦重。お返しに女郎たちは本の制作を手伝います
養父の駿河屋(高橋克実さん)が蔦重へかけていた深い思いなど、書籍制作と人情話を巧みに折り重ね、泣かせるエピソードが満載でした。
「(人でなしの)忘八のくせに、(蔦重のことになると)人みてぇなこと言っている」。駿河屋の真情をずばりと言い当てた扇屋の台詞が見事。泣かせました
「一目千本」は安永3年(1774年)、蔦重が25歳の時のプロジェクトです。「一目千本」は見渡す限りに桜が広がる名所として吉野(大和国、奈良県)を形容する言葉として古くから用いられ、「たくさんの花が見られる」というたとえ。書名からして粋で、教養を感じさせます。(ドラマの場面写真はNHK提供)
『一目千本』(佐賀大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100076143
ドラマで描かれたとおり、遊女たちに見立てた花同士が「すまひ(相撲)」を取るという趣向で作られた本です。美人画の名手として知られた北尾重政の画。「一目千本」ではそれぞれの女郎は名前があるだけで、実際にどんなキャラクターの人だったのかは、もちろん同時代の人でなければ分かりません。ドラマでは、割り付けられた花を手掛かりに、想像力を逞しくしてそれぞれの性格を具体化してみせたところが巧みでした。
例えば志津山は噂好きなので「葛クズ」。
志津山(東野絢香さん)
亀菊はツンツンしているので「山葵ワサビ」。
亀菊(大塚萌香さん)
馴染み客が次々と鬼籍に……魔性の常磐木は鳥兜トリカブト。
常磐木(椛島光さん)
無口な勝山はクチナシ。
勝山(平館真生さん)
美声の玉川は蒲公英タンポポ。さすがの歌唱でした(♡)
玉川(木下晴香さん)
陽気な嬉野はずばり丈菊ヒマワリ。
嬉野(染谷知里さん)
撮影に使われた「一目千本」の冊子が本物そっくりで、質感も見事。大河ドラマのスタッフの力量を伺わせるシーンでもありました。
ドラマのシーンに出てきた「一目千本」
こちらもドラマの場面
手にした時のワクワク感が伝わってくるような完成度です
下の写真は現代の図書館に収蔵されている「一目千本」の原本。忠実に再現されていることがよく分かります。
『一目千本』(佐賀大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100076143
そして巻末には絵師の北尾重政らとともに、制作元として「書肆しょし 蔦屋重三郎」と明記されています。「書肆」とは本屋のことです。
『一目千本』(佐賀大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100076143
「個」としての女性の姿、浮かび上がらせる
こうして完成した「一目千本」。人間の姿は描かれていないのに、女郎たちの個性が生き生きと表現されています。「この人の素顔はどんなだろう。会ってみたい」と思わせる一冊です。「粋」と形容されるのも分かります。
手堅いビジネスモデル、成果物の完成度がカギ
この「一目千本」、吉原のスター名鑑のようなイメージですが、人気のある人を順に揃えた、というものでもないようです。「べらぼう」の考証も務める鈴木俊幸中央大教授(近世文学)は「取り上げている遊女屋と遊女に大きな偏りがあり、網羅的ではないのである。つまり、挿花に名を取り合わせてほしい遊女、あるいは遊女屋からの出資(入銀)で制作費用をまかなうことが前提の出版物だったと思われる」(平凡社新書「蔦屋重三郎」)と分析しています。ドラマもこの見方に沿って展開しました。
「入銀本」は江戸時代、広く行われた書籍制作の手法でした。広告主から費用を確保した上で制作する、販売促進用のフリーペーパーのようなイメージでしょう。かつ今回はファン向けの限定品です。売れ残りのリスクを回避しつつ、確実な収入が見込め、制作実績も挙げることができるうまいやり方です。こうした手堅いビジネススタイルは蔦重の特徴で、これからも繰り返しドラマで描かれそうです。ただし、成果物は手にした顧客に喜ばれ、費用を負担した広告主(女郎や女郎屋)を納得させる出来が求められます。作るだけでなく、宣伝効果が見込める頒布方法も考えなくてはいけません。ここで蔦重のセンスが発揮されました。
彫師も氏名(古澤藤兵衛)が巻末に明記されるぐらい、熟練の技術が要求されました
生け花の隆盛、「花を人に見立てた」先行例がヒントに
「一目千本」のポイントは「生け花」です。華道には、古く室町時代に成立した「立花(りっか)」と呼ばれる様式があり、天皇や貴族、武士の間で広く愛好されました。桃山時代には秀吉が建てた大坂城、聚楽第、伏見城などの大規模城郭で、壮麗な書院の装飾の一部として大掛かりな「立花」が求められ、全盛期を迎えます。
「立花図屏風」江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
一方、作品によっては人の背丈ほどの大きさになり、かつ厳密な様式美が求められる「立花」に対し、江戸時代になるとより自由で小ぶりな「抛入なげいれ花」というスタイルが台頭します。1684年には「抛入花伝書」という啓蒙書が出版され、多数の流派が生まれて庶民の間にも生け花が広まります。蔦重が「一目千本」を発刊する4年前の1770年(明和7年)には「抛入狂花園」という見立て絵本が登場。洒落本作家の蓬莱山人が作ったものです。
華道沿革研究会 編『花道古書集成』第一期第三卷,大日本華道会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1869607
浮世絵師の鈴木春信、歌舞伎役者の市川団十郎、「江戸の三美人」のひとりとしてもてはやされた「笠森お仙」ら有名人を花に見立てました。きっと、手にした人々は「分かる?」「分かる!」と喜んだのでしょう。こうした本が発刊されるほどですから、いかに生け花が流行っていたかも分かります。
華道沿革研究会 編『花道古書集成』第一期第三卷,大日本華道会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1869607
華道沿革研究会 編『花道古書集成』第一期第三卷,大日本華道会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1869607
「花に見立てられるほど」の存在としての女郎たち
蔦重はこうした「見立て本」を参考に、「一目千本」のアイデアを閃いたのでしょう。そして女郎を「花に喩える」という営み自体、彼女たちへのリスペクトを感じずにはいられません。先行事例の「抛入狂花園」で、花に擬えられたのは各界の著名人ばかりです。女郎たちもそうした存在に並ぶべき者なのだ、という作り手の思いがにじみます。この本を手にした当時の江戸の人たちも「抛入狂花園」を連想したでしょう。作り手が訴えたいことを感じたはずです。
完成を喜ぶ蔦重。「一目千本」には吉原の女性に対する、蔦重の思いが垣間見えます
法政大学名誉教授の田中優子さん(日本近世文学)は「遊女はこの本で、花に見立てられる江戸の著名人の仲間入りをしたのである。吉原と遊女は蔦屋の仕事を通して、『江戸文化』そのものになっていった」(文春新書「蔦屋重三郎 江戸を編集した男」より)と「一目千本」の意味合いを語っています。
現代にも通底するモチーフ
「本の巻頭を飾りたい」という花の井(小芝風花さん)にほだされて大金をつぎ込み、ついには金欠で吉原に通えなくなった長谷川平蔵(中村隼人さん)にはクスリとさせられました。
アイドルグループの「人気投票」などを連想してハッとした方もいらっしゃったでしょう。現代でも「推し活」に励むあまり、お金に困る人は少なからずいらっしゃいます。様々な意味で蔦重の時代と私たちの時代との「近さ」を感じさせる場面でもありました。
頒布にも汗をかいた
本が出来上がっただけでは仕事は半分終わったにすぎません。読んでほしい人の手元に届けなければいけません。
髪結い床、茶店、湯屋(銭湯)、居酒屋など、男衆が出入りする場所にくまなく見本を置いていきました。湯屋の主人も「粋だねえ」と大喜び。客の暇つぶしには持ってこいだったでしょう。目のつけどころがさすが蔦重です。
今でも人が集まるスポットにフリーペーパーは付き物。こういうところも蔦重の時代と現代との「近さ」を感じます。
吉原への人出を取り戻すきっかけになった「一目千本」。蔦重のビジネスの大きな一歩となりました。
美人画の第一人者、北尾重政 蔦重と長く深く協働
「一目千本」の成功に際して、大きな役割を果たしたのが絵師の北尾重政(1739~1820)(橋本淳さん)です。蔦重が最も長期間にわたってパートナーシップを組んだクリエイターです。美人画を中心にこの時代を代表する名手で、作品も数多く残しているのですが、現代においてはさほど知名度がありません。どうしてでしょうか。
当時、絵の世界では一、二を争う名手だった北尾重政(橋本淳さん)
浮世絵の研究や展覧会というと、錦絵や肉筆画がメインになりがち。これに対して重政は印刷物の「版本」を中心に活動していたので、今の私たちはあまり目に触れる機会がないのです。
北尾重政「東西南北之美人・東方乃美人 仲町おしま、お仲」江戸時代・18世紀
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
「一目千本」をご覧いただいたとおり。実際の作品を見ればその卓越した力量は明らかです。
北尾重政画『絵本武者鞋』メトロポリタン美術館
出典:メトロポリタン美術館(https://www.metmuseum.org/art/collection/search/78698)
『絵本武者鞋』ものちに蔦重が重政と組んで出版したもの。ジャンルを問わず、武者絵や静物画も得意でした。黄表紙、狂歌絵本、錦絵など、蔦重とした仕事は多彩で、蔦重の晩年まで協働は続きました。また重政との仕事がドラマでも登場してくるかもしれません。「べらぼう」をきっかけに、知る人が増えてほしい絵師のひとりです。
梅毒、身売り…やはり厳しい女郎の稼業
「一目千本」で文化の発信地としての吉原がクローズアップされました。一方、光があれば闇はさらに強烈なのが吉原です。今回は病に倒れる女郎たちが描かれました。
肌に発疹が見えたので、多くは梅毒でしょう。日本には16世紀の前半に伝来したといい、江戸時代には広く流行しました。とりわけ遊郭では蔓延し、多くの女郎が罹患し、命を落としたとされます。高木まどか著「吉原遊郭」(新潮新書)によれば、吉原の遊女は郭外にでることを厳しく禁じられていましたが、病気の場合は例外として郭外に出ることが許され、吉原周辺にある楼主の別荘で快復に努めたそうです。しかし女郎の位が低かったり、快復見込みがない場合は外に出られず、部屋に押し込められ、ほとんど看病もされずに、食事も満足に与えられなかったといいます。
地方や場末に売られる人も
新潟の遊郭に売られた女郎の姿も描かれました。親から吉原に売られた女性は、幼少期に花魁の身の回りの世話などをする「禿かむろ」と呼ばれる頃を除き、平均的には17歳ごろから女郎として働き始め、27歳ごろになれば10年間の奉公が済んで晴れて年季明けとなる計算です。しかしその段階で借金があれば女郎生活から離れられません。山田順子著「吉原噺」(徳間書店)によれば、「切見世」と呼ばれる別の場末の店や、岡場所と呼ばれる無許可の遊郭、あるいは地方に売られることも珍しくありませんでした。金持ちに身代金を払ってもらって吉原を出る「身請け」や、年季奉公明けで所帯を持つケースはありましたが、やはり吉原、女性にとってあまりに厳しい世界ではありました。
「夕顔の少将」定信、「源氏物語」を7回も書写
のちに老中・松平定信として寛政の改革を主導する田安賢丸(寺田心さん)。八代将軍・徳川吉宗の孫です。奥州の白河松平家(現在の福島県白河市)から熱烈なラブコールを受け、養子縁組を受けるかどうか、早くも人生の岐路に立ちました。宝暦8年(1759年)生まれなので、この頃15歳前後です。
白河松平家への養子話が再燃した田安賢丸(寺田心さん)。のちの松平定信です
養子縁組の仲介にあたった田沼意次(渡辺謙さん)は、賢丸(定信)について「英明な若様」と激賞し、「このまま何の役職にも就かず、部屋住みで朽ち果てるのは惜しい」と白河に行かせるよう十代将軍家治に勧めました。この縁組の実現、家治に近い意次にとって何らかの政治的な思惑があったのは間違いないでしょうが、こと定信に関する評価は決して大げさではありません。
漢籍、書、絵画など広く学び、いずれの分野でも高く評価された定信。日本の古典文学への傾倒は著しく、名作の筆写を日課にしており、とりわけ偏愛した「源氏物語」は、生涯でなんと7回も全文を筆写しています。16歳の時、つまり今回のドラマで描かれた頃に、「源氏物語」にちなんだ和歌を詠んでいます。
心あてに 見し夕顔の 花ちりて たづねぞわぶる たそがれの宿
「源氏物語」でも特に人気の高い第4帖「夕顔」に寄せた歌。17歳の光源氏と急死した夕顔の悲恋のストーリーです。定信は年齢の近かった光源氏におのれを重ねたのでしょうか。夕顔を思って訪ねたのだが、花(夕顔)は散ってしまい、寂しい黄昏の宿だった、というしみじみとした心境を綴っています。この歌が一躍有名になり、定信は「たそがれの少将」「夕顔の少将」などと呼ばれ、歌人として名を馳せました。
清廉潔白で厳しい倹約や芸術への取り締まり、といったイメージの強い定信ですが、実はこうした文化人としての側面もあるのです。果たして今後、どのような人物像が描かれるのでしょうか。
(美術展ナビ編集班 岡部匡志) <あわせて読みたい>
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