元阪神監督の吉田義男さん死去、91歳 85年に球団初の日本一導く 現役時は「今牛若丸」の異名 – プロ野球 : 日刊スポーツ

吉田義男さん(2017年2月撮影)

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。

現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。球界の枠を超え、戦後昭和史に残る一大フィーバーを巻き起こした。

吉田さんは京都府出身。山城高から立命大を経て、53年に阪神へ入団した。

高い意識を持って、遊撃の守備力向上に努めた。寝るときと食事のとき以外はグラブをはめて過ごしていたといわれる。捕るが早いか、投げるが早いか。捕球から送球までの素早さは、他の追随を許さぬものだった。55年に来日したヤンキースの選手たちの投票による「アウトスタンディング・プレーヤー」(最も傑出した選手)に選ばれ、同球団からトロフィーが贈られた。

小技の利く打撃も、他球団の脅威だった。1年目の53年から、13年続けて規定打席に到達。54、56年には盗塁王にも輝いた。

62年には阪神のセ・リーグ初優勝にも貢献。東映との日本シリーズ第1戦では、怪童とうたわれた尾崎行雄からサヨナラ二塁打も放った。また64年には自己最高の打率3割1分8厘を記録し、2度目の優勝も味わった。

69年に現役引退。通算2007試合、1864安打はいずれも球団3位。同2位の350盗塁は、赤星憲広(381盗塁)に抜かれるまで長らく阪神史上最多だった。

阪神の監督を3度務めた、唯一の存在でもある。第1期の75~77年には優勝には届かず。

85年に復帰すると、チームの改革に打って出る。真弓明信を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻した。遊撃には名手の平田勝男、捕手には木戸克彦を抜てきし、センターラインを固めた。一塁には日本に慣れたバース、不動の三塁には掛布雅之と、役者がそろった。

4月17日巨人戦(甲子園)では、バース、掛布、岡田が伝説のバックスクリーン3連発を成し遂げる。これで勢いに乗った阪神は、21年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。余勢を駆って臨んだ日本シリーズでも西武を一蹴し、球団初の日本一に輝いた。

グリコ森永事件、豊田商事問題、そして日航機墜落事故…。騒然とした世の中を問答無用の明るさで突っ走った快進撃が高く評価され、阪神初の正力松太郎賞を受賞した。

86年には掛布ら主力の故障がたたり、3位に。そして87年には最下位に沈み、退任。現役時代の背番号23が永久欠番となった。

その後は野球フランス代表の監督として、異国で野球の普及に尽力する。フランス語の男性への敬称「ムッシュ」と呼ばれるきっかけにもなった。92年には野球殿堂入りも果たした。

97年には、阪神監督に3度目の就任。同年5位、翌年98年は最下位に終わり、ユニホームを脱いだ。

2000年から日刊スポーツ客員評論家となる。ABCテレビ、ラジオの解説でも、温かみのある京都弁で人気を博した。古巣の阪神を中心に、球界へ愛情あふれる提言を続けてきた。

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城を経て、立命大を中退し53年阪神入団。54年、56年盗塁王。ベストナイン9度は遊撃手最多。通算2007試合、1864安打、打率2割6分7厘、66本塁打、434打点。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。85年セ・リーグ制覇、日本一で正力松太郎賞。監督通算484勝511敗56分け、勝率4割8分6厘。92年殿堂入り。背番号「23」は永久欠番。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち

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吉田義男さん(2017年2月撮影)

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。

現役時代は名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名を取った。監督を務めた85年には21年ぶりのセ・リーグを制する。そして日本シリーズでも西武を倒し、日本一に。球界の枠を超え、戦後昭和史に残る一大フィーバーを巻き起こした。

吉田さんは京都府出身。山城高から立命大を経て、53年に阪神へ入団した。

高い意識を持って、遊撃の守備力向上に努めた。寝るときと食事のとき以外はグラブをはめて過ごしていたといわれる。捕るが早いか、投げるが早いか。捕球から送球までの素早さは、他の追随を許さぬものだった。55年に来日したヤンキースの選手たちの投票による「アウトスタンディング・プレーヤー」(最も傑出した選手)に選ばれ、同球団からトロフィーが贈られた。

小技の利く打撃も、他球団の脅威だった。1年目の53年から、13年続けて規定打席に到達。54、56年には盗塁王にも輝いた。

62年には阪神のセ・リーグ初優勝にも貢献。東映との日本シリーズ第1戦では、怪童とうたわれた尾崎行雄からサヨナラ二塁打も放った。また64年には自己最高の打率3割1分8厘を記録し、2度目の優勝も味わった。

69年に現役引退。通算2007試合、1864安打はいずれも球団3位。同2位の350盗塁は、赤星憲広(381盗塁)に抜かれるまで長らく阪神史上最多だった。

阪神の監督を3度務めた、唯一の存在でもある。第1期の75~77年には優勝には届かず。

85年に復帰すると、チームの改革に打って出る。真弓明信を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻した。遊撃には名手の平田勝男、捕手には木戸克彦を抜てきし、センターラインを固めた。一塁には日本に慣れたバース、不動の三塁には掛布雅之と、役者がそろった。

4月17日巨人戦(甲子園)では、バース、掛布、岡田が伝説のバックスクリーン3連発を成し遂げる。これで勢いに乗った阪神は、21年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。余勢を駆って臨んだ日本シリーズでも西武を一蹴し、球団初の日本一に輝いた。

グリコ森永事件、豊田商事問題、そして日航機墜落事故…。騒然とした世の中を問答無用の明るさで突っ走った快進撃が高く評価され、阪神初の正力松太郎賞を受賞した。

86年には掛布ら主力の故障がたたり、3位に。そして87年には最下位に沈み、退任。現役時代の背番号23が永久欠番となった。

その後は野球フランス代表の監督として、異国で野球の普及に尽力する。フランス語の男性への敬称「ムッシュ」と呼ばれるきっかけにもなった。92年には野球殿堂入りも果たした。

97年には、阪神監督に3度目の就任。同年5位、翌年98年は最下位に終わり、ユニホームを脱いだ。

2000年から日刊スポーツ客員評論家となる。ABCテレビ、ラジオの解説でも、温かみのある京都弁で人気を博した。古巣の阪神を中心に、球界へ愛情あふれる提言を続けてきた。

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城を経て、立命大を中退し53年阪神入団。54年、56年盗塁王。ベストナイン9度は遊撃手最多。通算2007試合、1864安打、打率2割6分7厘、66本塁打、434打点。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。85年セ・リーグ制覇、日本一で正力松太郎賞。監督通算484勝511敗56分け、勝率4割8分6厘。92年殿堂入り。背番号「23」は永久欠番。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち

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