1952年暮れ、立命館大学を中退してタイガース入団。初年度の1953年は遊撃手として38個のエラーを記録したが、松木謙二郎監督が根気よく起用して128試合に出場。その後、守備に磨きをかけ“今牛若丸”と称されるようになる。 誇りに思っている記録はシーズン192併殺守備機会。「まだ破られてないと思います。僕ひとりでやったわけやないですけど。それだけピポットマンだった白坂長栄さんの受け皿が良かったわけで。近代野球ではダブルプレーが取れるかどうかは大きいですからね。あんまり人は言わんけど、僕の自慢やと思います」 守備ばかりクローズアップされがちだが、1954年のシーズンには51個、1956年には50個の盗塁を決めタイトルを獲得。1964年のシーズンは6月まで首位打者を走る活躍で優勝に貢献した。 江夏豊が稲尾和久が持つシーズン最多奪三振記録(353)を塗り替えたゲーム(1968年9月18日)では、江夏のヒットでさよならのホームを踏むなど、タイガースにとって節目節目で活躍した隠れた名優でもある。 そんな吉田だが、プロレス界との接点がある。それは1957年8月25日、甲子園球場でおこなわれた読売ジャイアンツとの公式戦。一軍初登板となった馬場正平投手(のちのジャイアント馬場)の相手、それも第一打者として打席に立ったのだ。 「(阪神が)ボロ勝ちしてて、巨人の水原茂監督が8回に登板させたんですわ。2メートルを超える大きな男と、165cmの小柄な私。まあ、試合の大勢が決まってるので、ファンサービスだったんでしょうな。2階からやなくて、それこそ天井から投げてくるって感じで、球も速かった。2球で2-0(今でいう0ボール2ストライク)に追い込まれて。セカンド正面にいい当たりのゴロを打ったの覚えてる。その回、三者凡退やったんちゃうかな」と当時のことを述懐した。 長く「タイガース唯一の日本一監督」と紹介されてきたが、そのたびに「早くそう言われんようにしてください」と言い続けてきた。2023年、岡田彰布監督の下、2度目の日本一に輝いた時は、一番に祝福の電話を入れた。1985年のV戦士が率いたチームだっただけに、喜びもひとしおだっただろう。 タイガース入団以来、臨時コーチとして中日ドラゴンズに呼ばれたことこそあるものの、具体的な条件を提示されながらも正式なコーチ就任は拒否。1989年から1995年はフランスで野球の普及に努めたが、70年以上、縦縞一筋で通してきた一番の阪神ファンであった。(文中敬称略) 橋爪哲也
週刊プロレス編集部
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