平成25年ごろ
森永卓郎さんは1月28日、原発不明がんのため亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。当欄では令和6年12月の取材をもとに、連載を掲載いたします。
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《柔和な表情と語り口で、難解な経済問題も分かりやすく解説する森永さんが、末期がんを公表したのは令和5年。今回のインタビューで待ち合わせた東京・有楽町のニッポン放送で、レギュラー番組「垣花正 あなたとハッピー!」の生放送終了後にスタジオから出てきた本人は、やせてはいたが元気そのもの。「1人で電車に乗って移動している」と語った》
私がステージ4の末期がんで、「余命4カ月」という診断を受けたのは5年11月です。それまで自覚症状もなく、元気に仕事をこなしていたんです。ところが10月ごろに突然、体重が5キロほど落ちた。
それで自宅近くの病院で、X線の吸収率が高いヨード造影剤を使った造影CTを撮りました。すると、肝動脈の周りにもやもやしたものが写っていた。
医者の説明は「どこかにがんがあって転移したとしか思えない」というもの。おそらく膵臓(すいぞう)だろう、ということになった。しかも「来年の桜は見られないかもしれない」というのです。
《自身を「合理主義者だ」という。そのためだろうか。余命告知をされたときも、特にショックは受けなかった》
隣にいた妻はショックだったようですが、私は冷静でしたね。残りの時間をどういうプロセスで最も効果的、効率的に過ごそうか、ということしか考えませんでした。嘆き悲しむとか、そういうのは一切なし。
医者に言わせると、がんで余命告知をすると、急にどこかに旅行に行くとか、いいレストランに行き出す人が多いそうです。私はそんなことはみじんも思わなかった。この期間をどう充実させるか。やり残したことを全部やろうと考えました。私はオロオロすることがない。いつも冷静。常に「どうすればベストか」を探すんです。
《シンプルで強い死生観を持っている。若いころは「死ぬのが怖かった」というが、大学生のとき、あるきっかけで死ぬのが怖くなくなった》
18歳のとき、大学で笠原一男先生の日本史の授業を受けたんです。これが特殊な授業で、全部「宗教論」なんですよ。
笠原先生の教えは何だったか。それはなぜ鎌倉仏教が出てきたか、なんです。古代から封建体制に移る中で民衆が苦しむ。宗教家は実はあの世なんかないし、神も仏も存在しない、というのは知っている。ただ民衆をどう救うかを考えたときに、「念仏さえ唱えれば来世で幸せになりますよ」と、あえて〝噓〟をつく。それで救おうとした。その「あえての噓」が宗教にとって悟りを開くということだ、と。私は笠原先生の授業を聞いて、そう解釈しました。
そこで分かった。あの世はない。いかに現世をフルスイングで生きるのか。それが一番大切なことなんだって。それから、死ぬのは怖くなくなりました。
無神論者というか、私が教祖なんです。信者が一人もいない宗教の教祖。頼みとするのは自分以外にはいないんです。
葬式も戒名もお墓もいらない。遺骨だって、ごみとして処分してもらって構いません。
どうしても私に会いたいのなら、私設博物館「B宝館」(埼玉県所沢市)に、公開ダイエットに挑戦した際に作った私の等身大の看板がある。それを拝んでもらえばいいんじゃないでしょうか。(聞き手 岡本耕治)
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森永卓郎
もりなが・たくろう 昭和32年、東京都生まれ。55年、東京大学を卒業後、日本専売公社(現日本たばこ産業)などを経て平成3年、三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)に。6年、「悪女と紳士の経済学」を出版。テレビ朝日系「ニュースステーション」などメディアに多数出演。コレクターとして知られ、26年に埼玉県所沢市に私設博物館「B宝館」を開設。令和7年1月に死去。