「監督に自由を与えないのは犯罪」。「砂の惑星」で痛い思いをしたデビッド・リンチが語っていたこと(猿渡由紀) – エキスパート – Yahoo!ニュース

デビッド・リンチが亡くなった。78歳。ほかの誰にも似つかない、そして誰も真似することができない、飛び抜けた独創性を持つアーティストが、この世から消えた。

スタジオシステムの外で活動した人ではあったものの、ハリウッドがますます守りの姿勢に入り、続編、リブート、スピンオフに頼り切っている今、直感を信じ、イマジネーションを存分に発揮した彼のクリエイティビティが、なおさら惜しまれる。

筆者は3度、ご本人にお会いする機会に恵まれたが、「インランド・エンパイア」が上映されたヴェネツィア国際映画祭で単独インタビューさせていただいた時には、彼の創作に対する姿勢について、たっぷりうかがうことができた。

上映時間3時間の「インランド・エンパイア」は、リンチのフィルモグラフィーの中でもかなり難解な作品。ちゃんとした脚本がなく始まったもので、ローラ・ダーンも「自分が何を撮っているのかわからないこともあった」と語っている。リンチ自身も「まずひとつのシーンが浮かび、それを撮影した。そのシーンを見ると、また別のアイデアが浮かんできた。その後、旅行に出かけた。すると、別の場所に行くことで、もっといろいろな発想が出てきたので、それらを撮影してみた。そういうことが続くうちに、これは長編映画になるかもと思い始めたんだ」と、振り返っていた。

そういう映画は、観客にとってわかりづらいかもしれない。だが、彼は気にしない。とりわけ、日本人の観客は、「抽象を愛する文化を持つから」大丈夫だろうと思っていたようだ。

「抽象を経験する時、人は直感に頼る。ただ、感じればいいんだよ。私は、(観客に)『あまり考えないで、体験してください』と提案する。全部を感じた後、自分なりに考えてくれればいい。私は、抽象を含むストーリーが好きだ。抽象的な映画は、言葉では説明できないものを表現できる。それは、映画のマジック。しかし、みんなが抽象を理解するわけではないから、100人の観客がいたら100通りの解釈がなされるものと作り手は覚悟しなければ」。

「インランド・エンパイア」の主人公は、女優。ひとつ前の「マルホランド・ドライブ」も、映画の世界が舞台だった。

「マルホランド・ドライブ」が上映されたカンヌ映画祭で主演女優ナオミ・ワッツ(中)と(写真:ロイター/アフロ)

「このふたつはペアだと言ってもいいかもしれない。ふたつ単位、あるいは3つ単位で何かができることは、よくあることだ。私は今、映画ビジネスの世界に興味があるし、もしかしたら3つめがあるかも。わからないけれどね。私はロサンゼルスが好き。ロサンゼルスが与えてくれるフィーリングが好きなんだ。この土地の明るい光も。ニューヨークは上に高いが、ロサンゼルスは横に広くて、制限がないように感じる。ロサンゼルスには、映画への夢、映画の歴史がある。夜、散歩をしたり、パームツリーの並ぶ道を運転したりしていても、古き良きハリウッドがそこにあるように思うことがあるよ。とは言え、本当のインスピレーションは自分の中から来るもので、どこに住んでいるかは関係ない」。

自由を奪われて仕事をするのは真のホラー

そう語るリンチは、ハリウッドで痛い目にも遭っている。メジャースタジオで作った「砂の惑星」は、意図したのとまるで違う作品になってしまったのだ。だが、この失敗について、彼はスタジオではなく、ファイナルカット(最終的な編集の決定権が自分にあること)を契約盛り込まなかった自分を責め、その経験を人生教訓として活かしている。

「私は映画の前に、絵画を制作していた。絵画は、アーティストが思うままに描くものだ。誰も何も言ってこない。映画はそこに『時間』という要素が入ってくるし、クルー、お金も必要なのでもっと複雑ではあるが、アイデアから始まり、それを貫くという意味では同じだ。私にとってはね。でも、スタジオは違う。彼らはお金を稼ぎたい。『砂の惑星』に関して、(製作総指揮の)ディノ・デ・ラウレンティスは、私とまるで違う考えを持っていた。結果、私の意図した映画にはならなかった。あれは本当に辛い体験だった。もう二度とやらない」。

カイル・マクラクランは、クリエイティブ面で優れたパートナーだった(写真:Shutterstock/アフロ)

メジャースタジオと仕事をする監督がいるのは、もちろん理解する。その一方で、自分のような選択もあるのだと、彼は監督仲間に提言もする。

「デジタルが出てきたおかげで製作費を下げることが可能になったし、私のような姿勢で作品を作るのは可能だ。映画監督がアーティストとして何かを信じるのに、それを阻止するというのは、犯罪と言ってもいい行為だよ。その監督のやりたいようにやらせた結果、映画がコケたら、もうその監督とは仕事をしなければいい。それだけじゃないか。スタジオが監督に何かを無理やりやらせたとしても、そんな映画は儲からないに決まっている。映画は成功せず、ただ監督を殺すことになるだけ。自由を奪われて仕事をする時、私は死にたいとすら思う。真のホラーだ」。

暗い話を語るのにアーティストが暗くなる必要はない

ダークで奇抜、シュールリアルな作風とは裏腹に、本人は温かさと優しさにあふれる。1973年から毎日瞑想を実践してきたことも大きいだろう。瞑想を学ぼうと思ったきっかけは、「真の幸福は外にはない。自分の中にある」と聞いたことだという。

「だが、どこにあるのかは教えてくれない。瞑想は、それを知る手段だと思った。初めて瞑想をした時は、エレベーターの中にいて、誰かがケーブルを切ったような感じだった。すごいスピードで内側に落ちていったんだ。そして、今まで体験したことのない喜び、幸せが押し寄せてくるのを感じた。どうして今までこれをやらなかったのかと思ったよ。以後、毎日2回、必ず瞑想の時間をもうけている。みなさんにも、本気でおすすめするよ。瞑想にはいろいろな種類があるので、最も深いところに連れていってくれるものであることを確認して」。

暗い作品を制作するからと言って、本人も苦しんでいる必要はないのだと、リンチは主張。

「『starving artist』(飢えた芸術家)というコンセプトをよく聞くよね。苦しんでいるアーティストが良いものを生み出すという考えだ。私は、それを信じない。鬱だったり、病気だったりするアーティストに、どれほど良い仕事ができるのだろうか。苦労人だというほうが面白いから、誇張されてきたに過ぎないよ。死ぬシーンを撮影するために自分も死ぬ必要がないのと同じで、苦しむキャラクターを描くために自分も同じ状態になる必要はないんだ。第一、ストレスのある現場では、誰も仕事を楽しめない。行くのが楽しいセットにしなければ。暗い話を語るのに、アーティストが暗くなる必要はないよ」。

ご冥福を心よりお祈りします。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *