2023年7月、誕生日のお祝いで記念写真に納まる吉田義男さん
プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。2000年から日刊スポーツ客員評論家に就任し、健筆をふるった。担当として接してきた寺尾博和編集委員が故人を悼んだ。
◇ ◇ ◇
最後に吉田さんに会ったのは年末のことだ。すでに病床にあったが、深く息をし、わたしの手を握り返した。いつか息を吹き返すと信じていたし、その様子もましになってきたように察していただけに突然の別れになった。
阪神タイガースを愛した人だった。「早いねぇ。もうキャンプですなぁ」。「今年はどうでしょうな」。はんなりとした京都弁で交わす会話の中心は、いつも野球で、大半は自分が育った阪神の話題だったような気がする。
史上最強ショートで「今牛若丸」の異名をとった吉田さんは、とことん守備にこだわる人だった。現役時代にメジャーが来日したとき、ヤンキースの名将ステンゲルから「ヨシダをアメリカに連れて帰りたい」といわれた。そのプレーは「ファインアート」と表現されたほどの芸術的華麗さだった。
日刊スポーツ客員評論家として甲子園球場のネット裏から一緒にみた試合をみたときに生じた併殺プレーで、突然「あんた、今のセカンド、どっちの足でベースタッチしたかわかりますか?」と問いかけられた。
甲子園の記者席から二塁ベース付近まで、テレビのスローならともかく、一瞬のことで不覚にも答えることができなかった。「わたしら、これで飯食ってますねん」。野球記者として背筋が伸びたし、阪神戦をみるときは気が抜けなかったし、今でも戒めになっている。
古巣を語るときの吉田さんは、厳しくもあったが、やさしかった。1953年のプロ入りから現役として2度のリーグ優勝、85年は監督として球団初の日本一に導いた。今年は球団創設90周年だが、吉田さんは72年の長きにわたって阪神とかかわってきたことになる。
球団の栄光と挫折が交錯した長い歴史を知り尽くした。華麗な守備は失敗しながら身につけた技だった。タテジマの伝統がしみついた小さな体でしたプレーはファンを魅了した。監督として日本一になったシーズンを語る吉田さんは日付まで覚えていて軽妙でうれしそうだった。
23年に岡田監督で日本一になった瞬間、自宅から携帯電話に話しかけた。「岡田、おめでとう! おめでとう!」。まだ岡田さんはテレビの向こうでインタビューを受けているのを知りながら、画面に向かって何度も語りかける目には涙がたまっていた。
また吉田さんにとっての“第2の故郷”は、花の都パリだ。阪神で「天国と地獄」を味わった後、異国で新たな生き甲斐を見つけるのだった。仏ナショナルチーム監督として、欧州から五輪出場を目指した。野球が普及していない国で伝道師になった。
フランスにとって吉田さんは“野球の父”になった。今でもパリではその功績をたたえて「吉田チャレンジ」と銘打った国際大会が開催されている。現地では運営のお手伝いをしてきたが、最後まで野球にこだわり続ける姿に頭が下がった。東京五輪で競技種目に野球を復活させるためにも尽力するなど、プロ・アマ通じて野球界に貢献してきた。【寺尾博和】