【追悼・下條アトムさん】鉄腕アトムより先に生まれた本名の由来 同級生に”あの名前”の女子も(前編)

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俳優の下條(しもじょう)アトムさんが1月29日、亡くなっていたことが分かりました。2018年9月、下條さんが長い俳優人生についてあますことなく語ったインタビューを再掲載します。(取材・津島令子)

映画「男はつらいよ」シリーズの3代目″おいちゃん″役で知られる下條正巳と元女優の母(田上嘉子)を両親に持ち、自身も俳優になる道しか考えられなかったという下條アトムさん。 ドラマ「藍より青く」、映画「八つ墓村」や北野武監督「龍三と七人の子分たち」をはじめ、テレビ、映画、舞台に多数出演。「世界ウルルン滞在記」のナレーションやエディ・マーフィーの吹き替えなど声の出演も多く、歌手としてCDも出している。

父(下條正巳)の名前で入った「劇団民藝」をクビに!

幼い頃から父・下條正巳さんの所属していた「劇団民藝」の芝居を見ていたアトムさん。当時の新劇は付け鼻をしたり、外見を大きく変えて外国の芝居を上演していた。ドーランの匂いがする楽屋でまったく違う姿に変身した父を見て驚かされ、日常ではない芝居の世界に憧れるようになったという。だが、高校生時代、進路を決める時に俳優になると告げた時、正巳さんは猛反対したという。

下條 うちの親父は新劇というところでやってきましたから、とにかく食えない。何の保証もない。いくら好きでも好きだからと言って食えるわけではない。当時は食糧難から始まって、食うということが大事でしたから『才能云々ではなく、とにかく食えないんだからやめろ』って言われました。覚えてますね、その話をしたときの事は。 2人でこたつに入っていたんですけど、『じゃあ、そんなに食えなくてしんどいんだったら、親父は何でやってるの?』って僕が切り返したんですよ。そしたら親父が言葉に詰まって言いようがなくなって…。『そりゃそうだな』って(笑)。

−それで認めて下さったんですか− 「そうですね。高校卒業後、正式な試験を受けましたが、多分親の名前で…『劇団民藝』の俳優教室に入れてもらいました。これはもう完全に親のおかげでしたね(笑)。

−実際に入ってみてどうでした?−

下條 ちょうど新劇の過渡期だったので、いろんな試験があったり、いろんな制約がありました。僕はひどく悪い生徒で、できもしないのに口ばっかり。人の芝居を見るより舞台がやりたいとか、いろいろ馬鹿なことばっかり言って、2年ぐらいでクビ勧告になったんですよ。ちょうど『アンネの日記』と言う学校演劇をやらせてもらったのに『生意気なことばっかり言って君はだめだよ』って。今思えば、確かにそうです」 −お父様はその時にはまだ「劇団民藝」にいらしたんですか− 「いました。『お前の生き方だから』と言って怒りはしませんでしたけどね。親父の名前で入れてもらったのに、勝手にクビになったんですから親父は辛かったと思います。新劇の過渡期でしたから、やめる人も多かったし、金銭的なことや方向性も含めてこの先どうなるのかという不安もあったでしょうしね。

◆下條アトムプロフィル 1946年11月26日生まれ。東京都出身。「信子とおばあちゃん」(NHK)でドラマデビュー。ドラマ「藍より青く」、映画「八つ墓村」をはじめ、テレビ、映画、舞台など出演作多数。

生活の糧は危険なバイト?

民藝をクビになった後、しばらくしてバセドウ病を発症したアトムさんは、2年半の闘病後、再び俳優としての道を歩み始める。生活費を稼ぐため、さまざまなバイトをしたという。

下條 とにかくお金がなかったので、日雇いのバイトをしていました。船底のタ−ルを取る仕事とか、工場のタンクの中に入って洗うとかね。それは有毒ガスで事故が起こったりしたので辞めたんですけど、そんなこともちょこちょこっとやってました。別に苦労とかなんとかじゃなくて、それでお金を作って自分たちでお芝居を作ったりしてました。

−俳優の仕事だけで生活ができるようになったのはいつ頃からですか−

下條 26歳ぐらいかな。連続テレビ小説『信子とおばあちゃん』(NHK)でテレビに出るようになって、『藍より青く』(NHK)が終わったあとからレギュラーの仕事が多くなって、30歳を過ぎるくらいまでは、結構良い調子でした。3本ぐらいドラマの掛け持ちをしているのが普通のようになったりしましたから。

−ずっとコンスタントにお仕事をされてますね−

下條 どうなんですかね。自分ではわかりません。 25、6歳から50年近く、とりあえず役者、声の仕事、歌とかそういう自分を表現する仕事以外のアルバイトはしないで食えてきたとは思います。 長年やっていると、波に乗った時、波から落っこちそうな時、引いてる時は、自分でもオファーの種類とか、量とか、雰囲気でわかりますよね。それは当然ありましたけど、いつも、どんなお仕事でも面白くやらせてもらってきました。

−声のお仕事はいつ頃からですか?−

下條 ちょっとドラマの仕事が少なくなった30代の時にナレーションやアテレコのお仕事が入ってきて、あの当時は『アテレコ?声優?何だよ』って、役者たちはちょっと軽く見ているようなところがあったんですよ。 でもやり出すと、とてつもなく難しくて面白くて、自分ができないからもうちょっとちゃんとやりたい、もっとちゃんと表現したいと思って、好きでそうやって情熱をぐるぐる回しているうちにお仕事もつながってきたと言う感じですね。 ただ毎回いつも新人のようなつもりでやってるんですよ。いわゆる第一線級ではないですし、2軍でベンチをあっためているような気持ちですよ、僕は(笑)。

−バリバリの第一線級だと思いますが−

下條 いやいや、当時、役者があまりやってなかったんだと思います。だから物珍しさもありオファーをいただいたんだと思います。実際にやってみると、難しくて面白くてハマりました。僕の癖(ヘキ)なんですよ。歌でもそうですけど、何でもやりだすと、面白くなっちゃうんですよね(笑)

−今や声優は花形職業ですね−

下條 すごいよね。昔、『刑事スタスキー&ハッチ』というドラマの吹き替えを高岡健二と2人でやっていた時、アテレコが終わってスタジオから出てきたら女の子がたくさんいてね。その子たちが僕たちを見て『なーんだ、声優じゃないんだ』って言ったのにはガクっときましたね。「僕たちは一応役者なんですけど」って(笑)。それはちょうど声優さんたちがレコードを出したりなんかして、注目を集め始めた時期だったんですよ。その時に肌で時代が変わってきたというのを感じましたね。

アトムという名前がきっかけで手塚治虫と対面

原子を意味する英語であるアトムという名前は本名。下條さんが生まれたのは終戦の翌年、日本がGHQ占領下にあった時代。お父様が将来は日本でも名前・苗字の順に呼ぶようになるだろうと考え、最初に呼ばれるAで始まる名前にしたという。

下條 原子力は戦争ではなく、平和のために使われるはずだという願いも込めて名付けたと言ってました。でも、あの時代にカタカナでアトムというのは、親父も相当変わり者だなと思いますよ(笑)「鉄腕アトムより前ですものね。

―手塚治虫さんにもお会いになったそうですね−

下條 そんなこともありました。小学校4年生位だったかな。同級生にウランちゃんという女の子がいて、一緒に高橋圭三さんがやっていた『私の秘密』という番組に『本名です』って出たんですよ。それで手塚さんの耳に下條アトムと言う名前の子どもがいることが入って、僕の家に取材にいらしたんです。

−アトムさんのお名前もですけど、同級生にウランちゃんという子がいたというのもすごいですね−

下條 そうですよね。だからウランちゃんという妹を作ったのは、あれを見てからじゃないかななんて思ったりして(笑)。まぁそんな事はないと思いますけど、そのくらい珍しい名前ですよね。もし、僕がサラリーマンになっていたら、名前を変えていたと思います。『鉄腕アトム』の漫画はちゃんとしたものですけれども、僕らの時代で名前がカタカナのアトムではね。今の時代だと役者やスポーツ選手にもいますけれども、僕の時代はさすがになかったですから(笑)

″ウルルン口調″の「出会ったぁ〜」は、やりすぎ?

12年間続いた「世界ウルルン滞在記」(TBS系)ではナレーションを担当。「○○が〇〇と出会ったぁ〜」という独特のフレーズは″ウルルン口調″として注目を集め、番組終了から10年経った現在も多くのタレントがマネをしているほど。誰もが知る有名な″ウルルン口調″だが、番組開始当初は「出会った」というフレーズもなかったという。

「世界ウルルン滞在記」 毎回、リポーターとして俳優や女優、タレントが海外でホームステイをして、さまざまなことにチャレンジする姿をドキュメントとして撮影。世界各地で出会い、見て、体験し、肌で感じた世界の実情や日常生活をクイズ形式で紹介するドキュメンタリー番組。

−最初はあの″ウルルン口調″ではなかったそうですね−

下條 途中から『出会った』というフレーズが加わって、最初は普通にやっていたんですよ。でも、現地の映像を見ていると本当に過酷でね。『リポーターたちがこんなに苦労しているのに、僕は暖房や冷房が効いている部屋でナレーションの収録をやっていていいのか?』って思って、感情移入せずにはいられなかったんですよね。だから、彼らのサポーターみたいな気持ちで『頑張れ!頑張れ!』と思ってやっていたんですけど、だんだん応援したいという気持ちが強くなって『出会ったぁ〜』ってやり始めたんです」。

−今でも色々な方がマネされるほど有名です−

下條 自分ではあんなに話題になるとは思っていなかったんです。面白かったし、やっているうちに応援したいという気持ちもどんどん強くなっていったので、ついつい力が入って、プロデューサーに『やりすぎだよ、下條さん。そこはそんなに強調しなくて良いから』ってずいぶん言われてました。そういうところが下手なんで気持ちでやっちゃうんですよね(笑)。

−ほかの方がやっているのをご覧になっていかがですか−

下條 とても恥ずかしかったです。だからみんながやってくれて、もちろん嫌じゃないし、嬉しいんだけど、『なんかこっぱずかしいよなぁ。僕より上手じゃん』って言う人がたくさんいたりしてね(笑) 『これ自分?』って言うくらいしょっちゅういろんな方が真似していたので、楽しませてはもらいましたけど、なんか宙に浮いたような感じでよくわからなかったですね。

次回後編では北野監督作「龍三と七人の子分たち」の撮影裏話、最新出演映画「純平、考え直せ」、愛犬との時間を紹介。

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