マリナーズ時代のイチロー(2012年5月撮影)
Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~<上>
希代のヒットマン、イチロー。メジャー19年間で10年連続200安打、04年にはシーズン最多記録となる262安打を放つなど、だれもが認めるスーパースターとしてグラウンドを駆け巡った。米国で3089安打を重ね、日米通算4367安打をマークしたイチローは、いかにしてメジャー史上初の日本人野手としての道を走り抜けたのか-。「Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~」と題し、米国での足跡を3回でたどる。第1回はマリナーズ移籍1年目の逆風。(敬称略)
◇ ◇ ◇
背中を押す声以上に、真っ正面から吹き付ける「逆風」を強く感じていた。
イチローがデビューした01年当時、周囲はNPBから7年連続首位打者の実績をひっさげて海を渡ってきた細身の日本人を、好奇の目で見つめていた。ステロイドなどの筋肉増強剤が球界全体にまん延し、投打ともに筋骨隆々の屈強な男たちが居並ぶ時代。メジャー初の日本人野手は「活躍するか」ではなく「通用するか」のレベルで語られるなど、懐疑的な論調が大半だった。スピード、パワーの違いから、日本の野球評論家からも「バットを短く持った方がいい」との声が聞かれるほどだった。
今でこそ、日米両球界に認識されているポスティングシステムは、イチローの移籍希望から実現したものともいえる。98年、日米間で最高入札額を提示した球団に独占交渉権が与えられる新制度が導入された。早い時期からメジャー移籍を目指していたイチロー。だが、オリックスは同制度による大リーグ移籍に待ったをかけた。それでもイチローの思いを受け、FA取得まで1年を残した00年オフ、夢への後押しを決めた。
同制度で初、野手としても初めてメジャー移籍に踏み出した。その結果、00年11月にマリナーズが入札。直前までスター左腕ランディ・ジョンソンが背負っていた背番号「51」を引き継ぐことに周囲から批判的な声が聞かれるほど、イチローへの「逆風」は吹き続けていた。
イチローに対する「半信半疑」な視線は、チーム内にもくすぶっていた。前年まで主に右翼を定位置として絶大な人気を集めていた大砲ジェイ・ブューナーが控えに回ることもあり、地元ファンからも興味本位な声が続いた。実際、オープン戦では、中堅から左翼の逆方向へ安打を重ねていたイチローに対し、ルー・ピネラ監督(当時)が「君は(右方向へ)引っ張れるのか」と質問。その直後の打席で、イチローが右翼場外へアーチを放ち、何食わぬ表情でダッグアウトへ戻った逸話が残るほど、常にイチローの実力には「?」がつきまとっていた。そんな逆風を、イチローは瞬く間にグラウンドではね返していった。
01年4月2日。マ軍の本拠地セーフコ・フィールド(現Tモバイル・パーク)での開幕デビュー戦に「1番右翼」でスタメン出場。2安打を放ち、開幕勝利の立役者となった。「想像していた以上でした。間違いなく、一生忘れることのできない日。そしてもっとも特別な日になるでしょう。ただ、今日のことは今日で終わり。日付が変われば、また次の日のことを考えなきゃいけないと思います」。
その後は、結果を残すことで周囲の雑音を封じ込めてきた。4月11日の敵地アスレチックス戦では、今や伝説となった「レーザービーム」で一塁から三塁を狙った走者をノーバウンド返球でメジャー初補殺。全米の野球ファンを魅了した。その後、球宴には両リーグ最多得票で選出され、最終的に新人最多の242安打で首位打者、盗塁王に輝き、MVPと新人王をダブル受賞した。
「もう、これからは普通の選手でいられなくなったという気持ちです」
わずか1シーズンで強い「逆風」をはね返しても、イチローの危機感は変わっていなかった。【四竈衛】
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マリナーズ時代のイチロー(2012年5月撮影)
Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~<上>
希代のヒットマン、イチロー。メジャー19年間で10年連続200安打、04年にはシーズン最多記録となる262安打を放つなど、だれもが認めるスーパースターとしてグラウンドを駆け巡った。米国で3089安打を重ね、日米通算4367安打をマークしたイチローは、いかにしてメジャー史上初の日本人野手としての道を走り抜けたのか-。「Road to Cooperstown~米野球殿堂への道~」と題し、米国での足跡を3回でたどる。第1回はマリナーズ移籍1年目の逆風。(敬称略)
◇ ◇ ◇
背中を押す声以上に、真っ正面から吹き付ける「逆風」を強く感じていた。
イチローがデビューした01年当時、周囲はNPBから7年連続首位打者の実績をひっさげて海を渡ってきた細身の日本人を、好奇の目で見つめていた。ステロイドなどの筋肉増強剤が球界全体にまん延し、投打ともに筋骨隆々の屈強な男たちが居並ぶ時代。メジャー初の日本人野手は「活躍するか」ではなく「通用するか」のレベルで語られるなど、懐疑的な論調が大半だった。スピード、パワーの違いから、日本の野球評論家からも「バットを短く持った方がいい」との声が聞かれるほどだった。
今でこそ、日米両球界に認識されているポスティングシステムは、イチローの移籍希望から実現したものともいえる。98年、日米間で最高入札額を提示した球団に独占交渉権が与えられる新制度が導入された。早い時期からメジャー移籍を目指していたイチロー。だが、オリックスは同制度による大リーグ移籍に待ったをかけた。それでもイチローの思いを受け、FA取得まで1年を残した00年オフ、夢への後押しを決めた。
同制度で初、野手としても初めてメジャー移籍に踏み出した。その結果、00年11月にマリナーズが入札。直前までスター左腕ランディ・ジョンソンが背負っていた背番号「51」を引き継ぐことに周囲から批判的な声が聞かれるほど、イチローへの「逆風」は吹き続けていた。
イチローに対する「半信半疑」な視線は、チーム内にもくすぶっていた。前年まで主に右翼を定位置として絶大な人気を集めていた大砲ジェイ・ブューナーが控えに回ることもあり、地元ファンからも興味本位な声が続いた。実際、オープン戦では、中堅から左翼の逆方向へ安打を重ねていたイチローに対し、ルー・ピネラ監督(当時)が「君は(右方向へ)引っ張れるのか」と質問。その直後の打席で、イチローが右翼場外へアーチを放ち、何食わぬ表情でダッグアウトへ戻った逸話が残るほど、常にイチローの実力には「?」がつきまとっていた。そんな逆風を、イチローは瞬く間にグラウンドではね返していった。
01年4月2日。マ軍の本拠地セーフコ・フィールド(現Tモバイル・パーク)での開幕デビュー戦に「1番右翼」でスタメン出場。2安打を放ち、開幕勝利の立役者となった。「想像していた以上でした。間違いなく、一生忘れることのできない日。そしてもっとも特別な日になるでしょう。ただ、今日のことは今日で終わり。日付が変われば、また次の日のことを考えなきゃいけないと思います」。
その後は、結果を残すことで周囲の雑音を封じ込めてきた。4月11日の敵地アスレチックス戦では、今や伝説となった「レーザービーム」で一塁から三塁を狙った走者をノーバウンド返球でメジャー初補殺。全米の野球ファンを魅了した。その後、球宴には両リーグ最多得票で選出され、最終的に新人最多の242安打で首位打者、盗塁王に輝き、MVPと新人王をダブル受賞した。
「もう、これからは普通の選手でいられなくなったという気持ちです」
わずか1シーズンで強い「逆風」をはね返しても、イチローの危機感は変わっていなかった。【四竈衛】