阪神大震災直後、黒煙を上げて燃え上がる神戸市長田区菅原通周辺=1995年1月17日午前8時半、本社ヘリから撮影
1995年の阪神大震災の教訓を踏まえ、兵庫県はその翌年に自治体初の「防災監」という役職を設け、災害に備えてきました。今や、どこででも誰もが甚大な災害に遭う恐れがある中で、初代防災監を務めた斎藤富雄さん(79)は、市町村の財政力の強弱が、防災力の格差につながることを懸念しています。そんな事態を避けるために、私たちが暮らす自治体は、どうすべきなのでしょうか。
震災で防災体制の弱点あらわに
――兵庫県で初代の防災監をされました。自治体での防災監の役割とは、何でしょうか。
昼夜を分かたず防災や減災、危機管理について考えるのが仕事です。災害時、首長は多忙ながら広い視野を持って判断しなければなりません。防災監は専門的な学びを踏まえて、首長の判断を補佐することになります。司令塔として具体的な執行を指揮する重い責務があります。
私は防災監として、行政組織全体として防災機能を高めることを目標の根底に置いていました。
阪神大震災は、自治体の防災体制の弱点をあらわにしました。兵庫県庁では、被害を把握、分析し、応急的にどのような対応をすべきかといった判断ができる職員がいないという「専門性の欠如」が見られたのです。2~3年の人事異動などで担当者が代わり、災害時に関連機関との連携が築きにくい「継続性の欠如」がありました。
また、災害はあらゆる行政分野に影響しますが、各部局の縦割り業務によって総合的に対応できないという弊害をもたらし、迅速性に欠けるという矛盾も生じました。そうした教訓から、県は専門職を置き効率的、効果的な災害対応ができるように改善を目指したのです。
――阪神大震災から学んだことを、もう少し具体的に教えてください。
1995年1月17日は、3連休明けの火曜日でした。地震が起こったのは起床して約15分後の午前5時46分です。
神戸市東灘区の木造2階建ての自宅で、激しい揺れに遭いました。全壊は免れましたが家具や食器が飛び交いました。近隣ではほとんどの家が倒壊し、火の手があがった所もありました。災害対応の拠点となる県の庁舎や市町庁舎も被害を受け、多くの職員も被災しました。
当時、災害といえば風水害が念頭にあり、「地震はない」という安全神話がはこびっていた無防備な状況でした。私は当時、県の知事公室次長兼秘書課長でしたが、大地震の際にどのように行動するかの知識も備えもありませんでした。
混乱の中で命の尊さや自然災害の脅威を学び、行政の対応に限界があることを知りました。住民の相互扶助、ボランティアや民間企業の支え、専門家の知見、メディアの情報発信など普段からのつながりをいかに機能させるかが大切だと実感しました。
FEMAから学ぶ
――阪神大震災を受け、県はどういう経緯で防災監を設置したのでしょうか。
…