◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」
まさに突然の訃報だった。「よっさん」こと阪神・吉田義男元監督が2月3日、午前5時16分、脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。ことし阪神は球団創立「90周年」を迎えた。愛弟子・岡田彰布監督から藤川球児監督への《禅譲》を誰よりも喜び、応援していたのが吉田氏だっただけに、「日本一奪回」を見ずに逝くのはきっと心残りがあったことだろう。ご冥福をお祈ります。
筆者にとっても1985年、虎番記者として初めて「リーグ優勝」「日本一」を味合わせてくれた監督だった。思い出は幾つもある。まずは84年11月10日の出来事からご紹介しよう。
その日は「右翼」か「二塁」で揺れ動いていた岡田選手のポジション問題に、ようやく終止符が打たれる日だった。場所は大阪・梅田にあったホテル阪神、吉田監督とコーチ陣、トレーナーとの話し合いが午後5時から続いていた。午後9時、一枝修平コーチと一緒に吉田監督が出てきた。
「みんなでいろいろ協議した結果、来季、岡田を二塁で、真弓を外野でやってもらうことにしました」
予想通りの結果。だが、先輩記者たちの表情には「なぜ?」という疑問符が浮かんでいた。吉田監督はそれを見逃さなかった。
「みなさんの顔を見てたら、なんでや―と思てはる人が多そうでんな。みなさん、二塁手・岡田に対する評価が少し低すぎるのとちゃいますか。たしかに、まだ横への動きは狭いかもしれまへん。猛練習が必要でしょう。けど、岡田はどんなに走者に差し込まれようとも、併殺の際に逃げることなく一塁へ送球する。一、二塁間の打球の処理も抜群にうまい。私が見る限り、岡田は《日本一の二塁手》になる素質が十分あると思います」
そのときだ。ベテラン記者の一人が吉田監督の発した「日本一」の一言に思わず「プッ」と噴き出した。そのとたん、吉田監督の表情が変わった。その記者を指差し―。
「あんた、いま笑いなはったな。私が日本一の―と言うたときに笑いなはったやろ。わたし、その笑いを1年間、忘れまへんで」と言い放ったのである。凄い監督や。こんなことを胸を張っていえる吉田監督に、当時29歳の筆者はしびれた。
ちなみに、そのシーズンが終わり、監督と記者との懇親会が行われたとき、吉田監督は笑った記者の肩をポンポンと叩いて「私、あんさんが笑ろたん、覚えてまっせ」と笑顔でつぶやいた。その執念深さにも驚かされたのである。
1985年、筆者は「吉田義男」という人間の魅力にどんどんと引き込まれていった。8月12日、日航機墜落事故に中埜肇球団社長が遭遇した。巨人戦のため東京へ来ていた阪神ナインは信じられない事故に動揺した。
13日午後3時、ナインたちは異様なムードの後楽園球場に入った。いつもなら陽気に話しかけてくる巨人の選手たちも遠巻きに見ている。スタンドからの歓声もなく。妙などよめきが選手たちを包んだ。ウォームアップが始まっても選手たちは無言。そんな選手たちを容赦なく報道のテレビカメラが追った。少しでも近くで選手の表情を撮ろうと…。そのときだ。そのテレビカメラの前に両手を広げて吉田監督が立ちはだかった。
「すみません。球場へ一歩踏み込んだからには、ここが私らの仕事場です。どうか、静かに野球をやらせてもらえまへんか」
吉田監督は静かに頭を下げた。怒りはない。それは《平常心》を取り戻そう―という選手たちへの、自分自身への《静かな檄》だったのである。
そう、こんなこともあった。吉田監督は1975年に初めて「監督」に就任したときから「ケチ」と陰口をたたかれていた。そのケチのエピソードのひとつが、たばこの1本、1本にボールペンで「〇に吉」と書いていた―という「マルヨシ事件」。先輩からこの話をよく聞かされていた筆者はある日、思い切って吉田監督に尋ねた。
「監督はホンマに1本1本に名前を書きはったんですか?」
吉田監督は怒らなかった。
「そういうふうに言われてますな。けど、そんなことしまっかいな。私がケチやからそんな作り話で笑ろてるんです」
吉田監督によれば真実はこうだ。吉田監督はベンチでよくタバコを吸った。1975年前後は選手もベンチでプカプカ。ベンチの端にはずらりとたばこの箱が並んでいたという。吉田監督がさぁ、吸おうと思うと自分のたばこがない。誰かが間違って持っていたのだ。そんなことが何回も続き、ついに吉田監督は間違われないように―と自分のたばこの箱にマジックで「〇に吉」と書いた。
この話が「ケチ」の尾ひれがついて「1本1本に」となったのである。「ほんまに、しようもない話ですわ」と吉田監督は懐かしそうに笑った。
「わたしには兄弟や親せきがぎょうさんおりましてね。子供のころから早よ取って食べな、食べもんにありつけんかったんです。その癖が抜けまへんねん。せやから私は食べ物には《いじましい》んですわ」
吉田監督は若い記者にでも正直に話してくれた。そんな「よっさん」が大好きだった。小学生のころ、初めて親父に買ってもらったユニホーム(当然、縦じま)。背番号は「23」だった。その頃の写真を監督に見せると「ふーん」といっただだけでガッカリ。それも忘れられない思い出のひとつ。たくさんの思い出をありがとうございます。今年のタイガースの戦いぶりを天国からご覧ください。(合掌)
▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。