鉄壁の二遊間だった(左から吉田さん、鎌田さん)
2月3日に亡くなった吉田義男さんは、京都・山城高で夏の甲子園に出場後、立命館大を中退して阪神に入団。1953年から正遊撃手として活躍した。17年にわたって阪神の主力を担い、華麗にして堅実な守備から「今牛若丸」と称された。
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阪神で二遊間を組んだ鎌田実さん(2019年没)は、吉田さんのプレーについてこう語っていた。
「ボクが入団した時には、4年先輩の吉田さんはすでに“牛若丸”と呼ばれていた。スタートはもちろん、捕って投げる動きも他の選手よりワンテンポ早く、それに合わせるのが大変だった。二塁手としてその吉田さんのプレーについていけるようになるまでに4年かかったが、それからの4年間の阪神の二遊間は日本一だったと思う。
吉田さんもボクも察知能力が高かったし、投手のコントロールもよかったので、阪神の二遊間は投手の球筋と打者の組み合わせで守備範囲を大きく変えることができた。特に二塁手は送球する一塁に近いためセンター前から一塁手の後方まで幅広く自在に守備位置を変えられました。V9時代の巨人はON以外は走者が出るとチームプレーで右方向に打ってきたので、その効果も絶大だった」
当時は二遊間よりも三遊間が注目される時代で、守備だけでいえば巨人の長嶋茂雄と広岡達朗とのコンビを上回る三遊間が阪神の三宅秀史と吉田義男だった。阪神はこれに二塁手の鎌田実が加わる。二遊間の併殺プレーも阪神のウリのひとつだったと鎌田さんは話していた。
「フロリダキャンプで習得したバックハンドトスは当時の日本球界では使われていなかった。それまでは二塁ベースから6メートル以上離れていると二塁ゴロはフォースアウトにしかできなかったが、バックハンドトスを使うことでゲッツーにできた。
ピンチの場面でとっさに使ってみたが、吉田さんは平然と捕ってダブルプレーにした。のちにボクが近鉄に移籍してバックハンドトスを使った時は、遊撃手が捕れなくて三原修監督にサーカスプレーとして封印されてしまったが、吉田さんの守備のレベルがいかに高かったかわかる。二塁ベースまでの距離によってバックハンドトス、アンダートス、グラブハンドトス、反転トスなどトスだけで何種類もあったのに、吉田さんはすべてを卒なくこなした」
入団テストで「チビはいらん」と言われた真相
阪神は試合前のシートノックにショーの要素を入れて観客に見せていたという。
「肩の強い三塁手の三宅さんにはライン際のゴロを打ち、吉田さんにはクイックスローができるようにバントを転がす。ボクには二塁ベース上に打ってジャンピングスローをさせた。相手チームもベンチから見ているし、どこの球場でもゲーム前のシートノックは拍手喝采。阪神は守備練習で銭が取れるといわれていた」(鎌田さん)
吉田さんは拙著『巨人V9 50年目の真実』(小学館)の取材で、華麗と評される自分の守備についてこう語っていた。
「ボクは体が小さかったので、とにかく早く投げないといけないというので努力はしました。当時はエラーでもしようものなら、“どないしとんねん”と怒鳴られた。一塁は三塁からコンバートしたばかりの藤村冨美男さんで、ストライクを投げないと捕ってくれない。1年目38、2年目30とエラーも多かったが、“人は失敗して覚える”が口癖の松木謙二郎監督は使い続けてくれた。この監督でなければ今のボクはなかったと思う」
身長167センチの小柄な体型から「今牛若丸」と呼ばれた。高校卒業時に阪急の入団テストを受けたが、当時の浜崎真二監督が「あんなチビはいらん」として落とされたとの話が伝わっていると聞いたところ、吉田さんは笑いながら「ちょっと違ってますわ」と真相を語ってくれた。
「阪急の二軍監督だった西村正夫さんが高校のグラウンドに来て“阪急に来ないか”と誘われたが、体も小さいのでその場で断わった。当時は体重が13貫500(51キロ)でモヤシだった。そんなことがあって大学に進学した。
すると阪神が獲得する予定だった慶応大の松本豊さんが社会人に進んでしまった。そこで急遽ボクを獲ることになった。スカウトの猛アタックに折れる形で1年生の大晦日に大学を中退して入団したんです。両親は反対だったが、野球を辞めても親会社(阪神電鉄)で雇うとまで言われたし、藤村(冨美男)さんが“プロでやれる”と太鼓判を押してくれたと聞いて入団を決めた。大卒の初任給が1万円に届いていない時代に、契約金50万円、月給3万円。厚遇でしたね。ただ、藤村さんの話はまったくでたらめでしたが(笑)」
ルーキーイヤーにレギュラーとなり、打順は8番だったが、打率.267をマーク。小柄でもプロで通用することを証明したのだった。心よりご冥福をお祈りいたします。
■取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)