※会見ノーカット動画 55分33秒、データ放送ではご覧いただけません。
イチローさん「えっと…まずこの日を迎えるということが2001年、僕が初めてMLBに挑戦した年に、おそらく地球上で誰も想像はできなかったと思うんですよね。ここまでアメリカで25年、現役は19年ですけども、振り返るとあまりにも多くの出来事があって。いいことだけではありませんでした。苦しいこともたくさんありましたけど、最終的にここに1歩ずつ近づいていった。
そして、きょうこの日を迎えられたことは、ことばでは言い表せないほどの気持ちです」
「シアトルのファンの方々に対しては、2012年の途中まで、僕は2001年からプレーしてトレードでニューヨークに行ったんですけれども、その後、マイアミに行って、2018年にシアトルに戻ってきたんですけど。その時に迎え入れてくれた温かい気持ち。これはもう、いろいろ今回振り返ってみたんですけれども、18年の開幕戦は僕のトップいくつでしょうかね、トップファイブに入るぐらいのハイライトでした。
シアトルのファンの方々の前で、球団に対しても出ていった選手をまた戻してくれたその思いがとてもうれしかったですし、人の思いがこんなにも刺さるというか。自分がやったことというよりも人のその気持ちがすごくこの年になったからなのか、経験を経てなったのか、そこは分からないですけど、特別な関係になりましたね、あの2018年は」
Q.きょう電話で連絡を受けたときの気持ちを教えてください。
「2時15分から待機をしました。これは電話がかかってくることが前提の準備だったので、15分を過ぎて電話が鳴らなかったときに、これはないんじゃないかと思ってすごく不安になりました。
で、実際に電話がかかってきて報告を受けて、そのときにすごくうれしかった。やったというよりもほっとしたという気持ちのほうが強かったですね。おそらく喜びはこれから出てくるんじゃないでしょうか」
Q.初めての日本人野手として大リーグに来たときはどんなことが大変だったか。
日本人として初めてアメリカ野球殿堂入りしてどんな気持ちか。
大リーグ初HR(マリナーズ・2001年)
「2001年は野手で初めての挑戦だったということもあって、僕は日本で7年続けて首位打者を取ってのタイミングだったので、アベレージヒッターにとっては僕が指標になるというか、僕を基準にされるという認識がありました。日本人の野手の評価は僕の1年目で決まるという思いを背負ってプレーした記憶があります。その後、3年プレーした時にようやく周りからも主にはアメリカの方にもある程度、認めてもらったというか、そういう感触がありました。それから長い時間を経てきょうに至るわけですけど。『日本人選手として初めて』ということは、僕を表現する時に何かとつきまとうものなんですけど、今現在、現状、きょうの気持ちでいえば、それが何かにつながるとかそういうふうには現段階では捉えられないです。おそらく時間がたった時に、あれはこういうことだったんだと。いろいろなことがそうであるようにこれもその1つだと思います。
やっぱり時間がたってからでないと、人というのは、今現在起きていることが正しいか間違いかとか、そういう判断が難しいわけですね。これもその1つだと思っています」
現役引退 東京ドームで(2019年)
「いろいろな記録が僕にまつわる数字はあるんですけども、おそらく多くの人が経験できるものではない時間と捉えると、2018年5月の頭から選手としてはプレーができなくなった時間ですね。翌年の引退につながる2019年の3月につながるわけですけど、2018年5月頭から9月終わりまで、10月頭まで、練習だけの時間を過ごした、次の年を信じて。この時間はなかなか経験できるものではないと今振り返っても、おそらくこの先もそう思う。あるプレー、ある記録というものよりも、この経験が僕の支えになっていると言えると思います。
さらには2019年引退ですね、東京ドームでの引退のあの時間は、僕は引退をお知らせしていなかったにもかかわらず、試合が終わって何時間もたってもお客さんが球場にとどまってくれて僕を待っていてくれた。あの瞬間は大きな僕の支えと、これからもなると思います」
Q.これから野球を始める選手やプロになったばかりの選手にアドバイスをするとしたら。
入団当時(1992年)
「僕は18歳でプロ野球選手になったときに、まずメジャーリーグでプレーするなんてことは想像すらできませんでした。それが日本でプレーしていくうちに『アメリカでプレーしたい』という気持ちが芽生えてくる。徐々に段階を経て進んできたという感触がすごくあるんですね。アメリカに来てからも何年プレーできるかなと、全く分かりませんでした。それが最終的には2019年まで続き、今日に至ると。
才能ある人たちもたくさんいます。僕なんかもうとても比較にならないぐらい才能にあふれた人がいっぱいいます。でもそれを生かすも殺すも自分自身だということです。自分の能力を生かす能力はまた別にあるということは知っておいてほしい。才能があるのになかなかそれを生かせない人はいっぱいいます。けがに苦しむ人もいます。自分をどれだけ知っているかということが結果に大きく影響していることを知っておいてマイナスはないと思います」
Q.イチローさんにとって背番号「51」はどんな数字か。
永久欠番となることをどう感じているか。
「サインをするときに『51』がずっと使えるというのはめちゃくちゃうれしいです。あとは今まだ51歳なので、そのタイミングでこれはまたなかなか特別なものです(笑)」
「まだ実はメッセージの中身は見ていないんですけど、でもその中の1つに、サービス元監督ですね、スコットからあったのはすごくうれしかったですね。実は監督を昨年のシーズンの途中で退かれて、どのタイミングで連絡すればいいのか分からなくて連絡できないままでいたんですね。で、きょうスコットから、名前だけなんですけど、中身は見てないんですけど、まだ、それがあったのですごくうれしかったです。
もしジュニアとマイク・スウィーニーからなかったら説教します(笑)」
Q.野球発祥の地でもあり、アメリカ野球殿堂博物館のあるクーパーズタウンはいつからイチローさんにとって特別な場所になったか。
「初めてクーパーズタウンに行ったのが2001年。そのときはですね、その後もなんですけど、いろいろな過去の選手と記録で交わることがあって。彼らが当時使っていた道具を見てみたいなという、そういう気持ちがすごくありました。博物館に行くといろいろツアーで見られるんですけど、特別な昔の選手の道具が大切に保管されていて、そこに行くのが僕は大好きなんですけど。2001年は確かジョー・ジャクソンの記録、ルーキーのヒットの数ですね。僕は242でしたけど、そこの記録と交わったことがあって、見に行きました。驚いたのは、シューズがあったことです、ジョー・ジャクソンの。靴履いていないんだと思っていたら靴があった、それにすごく驚いたことと、後にそれは1試合だけだったと知って、人の思い込みというのは怖いなという経験をするんですけど。何度も何度も訪れたのは、誰かの記録と関わったとき、その選手たちと現代に生きる自分が、道具を触ることによって会話ができるような感じ、話ができる感触があって、すごく気持ちのいい、体験として残っています。もう1点いうと、現代に生きていると生活しているだけでストレス、特に今はそうですよね、生きているだけでストレスがたまる社会になりました。そういう中で野球だけの街があって、自分が現役でプレーしている選手が、過去の気持ちがいい思い出があって、またそこを再び訪れて、訪ねて、心が洗われるというか、そういう記憶もありました。
だから僕はクーパーズタウンというのは、現役を引退してから行く場所というよりも現役中に行ってほしい場所なんですよね、経験上。今の選手たちにもぜひ、訪ねてほしい。僕が勧められる唯一の場所と言っていいかもしれないですね、野球選手にとっては」
Q.ランディ・ジョンソンのつけていた「51」をもらったとき、どんな会話をしてどんな経緯で決まったのか。
「当時『51』をつけることになるときに、特別な番号だということは認識していました。当然、シアトルの街にとっても球団もちろんそうです、ファンにとっても。この番号を汚してはいけない。これが51番をつけた選手がただの普通の選手だったら、これはランディ・ジョンソンに対して申し訳が立たないし、そういう覚悟がすごくありました。日本人選手、野手として初めてというのも大きな1つでしたけども、51番というのは1つ、特にシアトルにとって特別な番号であったこともあって、僕の中にもすごく重く存在していた。そういう記憶があります。だから2001年のオールスターの1打席目はランディ・ジョンソンと対戦したわけですけど、あの1打席は忘れられないですね。オールスターの記憶はたくさんある中で、サンフランシスコでのインサイド・ザ・パーク(2007年オールスターゲームのランニングホームラン)などありますけど、ランディ・ジョンソンと対戦をしたというのは、これは実は深く記憶に残っているシーンです。そこに一緒にいてくれたね、きょう、ジョン・オルルッドがここにいてくれることはすごくうれしいです。希望としてはヘルメットをかぶっていてほしいです(笑)」
(※ジョン・オルルッドさんは現役時代、守備でもヘルメットを着用していたことで知られる)
「これはノブの部分が野球のボールになっているんですけど、それでこれから出てくるものなんですけど、メッセージとしては、自分が好きなことを見つけて、夢中になることに飛び込んでいこう、そのドアを開けてみようという、そういうようなメッセージが込められています。きょう、クーパーズタウンに行ってからは違うなと思ったので、シアトルでの会見はこれがいいなと着てきました」
Q.MLBネットワークのインタビューでジーター選手に会いたいと話していたが、その理由と、同じように満票に1つ足りなかったことに対しては。
「まずジーターに最後に会ったのはマイアミの3年目が終わったシーズンオフです。オフになって球場でジーターと当時のマイク・ヒルですね、マイク・ヒルとジーターが2人で話があるということで、球場を訪ねたんですけど、その時に来年の契約はないと、そこではっきりと告げられました。それで次に僕は進めたわけですけど、そこからジーターがマーリンズのメインのオーナーの1人になって、会う機会がなかったんですよね。それから、会う機会がなければ当然、電話で話すわけでもないですから。この機会にどこかで再会したいという思いはずっとあったので、もしこのタイミングで会えたら、夏になりますかね。それはなかなか、当時できなかった話ができるんじゃないかということも含めて、楽しみにしています。1票足りないというのはすごくよかったと思います。しかもジーターと一緒。これも数字的な話なんですけど…足りないものを、これって補いようがないんですけど、努力とかそういうことじゃないからね。ですけど、いろいろなことが足りない、人って。それを自分なりに自分なりの完璧を追い求めて進んでいくのが人生だと思うんですよね。
これとそれはまた別な話なんですけど、やっぱり不完全であるというのはいいなと。生きていくうえで不完全だから進もうとできるわけで。そういうことを改めて考えさせられるというか、見つめ合えるというか、そこに向き合えるのはよかったなと思います」
Q.今、多くの日本選手が活躍している状況をどのように感じているか。
これに対して自身も大きな役割を担ったと思うが。
「僕が何を担ったか分からないですけど、初めての野手としての覚悟を持ってプレーしたことは事実です。でもその後もじゃあ同じ思いを持ってプレッシャーかというと、そうではありません。日本人選手のために僕がやることで何かが開けるか、そんな余裕なかったです。もう必死です、自分の結果を出すことに。結果的にそう見えたかもしれないですけど、それは人が判断することで、僕から述べることではないと思います。
いま、日本人選手たちの活躍、あるんですけれど。ことしで僕が初めて来てから25年目となるんですけど、感覚的にはまだまだ少ないんですよね。『25年後にこんなに少ないの』という感触です。だって、南米系の選手、どのチームだっているじゃないですか、何人もいます。なんだったらアメリカ人よりも多いチーム、感覚的にね、実際の数は見ていないですけど、そこまで到底及んでいないですよね。あまりにも進み方が遅いというのが僕の感触です。各チームに1人、2人、最低いるぐらいになっているんじゃないかと期待していました。でも全くそこまで届いていないです。これが僕の感想です」
Q.現役時代、ことばの持つ力をどう意識してことばを発する時に何を意識していたか。
「僕の中から出てくることばを選んでいました。じゃないと伝わらないから。人から聞いたいいことばとかいい話とかって、いいんだけど、それってこうやって公の場で僕のことばじゃないことばで話したとしても、聞いている人は分かっちゃうんですよね、不思議なことに。僕の中から湧いてくることば、それを表現しました」
「降ってくるのを待っていることはありました。でもそれを作り上げたという感じじゃないんですよね。ことばって確かに、何か自分の意思とか気持ちを伝えるのに、基本的なことばでしか伝えられないことも多いわけで。その時に自分のことばじゃないことばで伝えたとしても、皆さん、話を引き出すお仕事ですから、それって感じられてきたんじゃないですか。いろいろな選手たちと、いろいろな人たちと話をしてみて。僕が聞いてみたいくらいです」
Q.今の時代、選手自身が何か言われたりしないようにセーブして話していると感じることはあるか。
「もちろんそうですよ、それはどの時代もそうですけど、今はそれが極端になっているという印象ですよね。今、記者さんたちは大変だなと僕は想像するんですけど、表現していることばを額面どおりに取れないんじゃないかと。その裏側を結局捉えないといけないけど、でも表現していないから、それは書けない。だけど表現ができないというもどかしさは、それは現代の深刻な病とまでは言わないですけど。ことばの裏側を捉えないといけない。だけどそれは表現ができない。だから僕はなるべく、自分が思っていることを表現したいと思っています。でもそれでも難しい、現代はね。いろいろなことをカバーしようとしたら、無理ですよ、もう話なんかできない。
だから僕としては、薄っぺらい会話なら何言ったっていいんだけど、深く議論を呼びそうな話題になった時、その時は7:3のバランスでアンチがいるといいなと思っています。100%、10割ね、賛同される意見なんてつまらないですよ。つまらないし、議論にならないんで、そもそも。7:3、6:4だとちょっとね。8:2でも、8が強すぎるのも、問題ではないんだけれど、7:3ぐらいのバランスを目指しているんだけどね、なかなかそれは結果だから分からない」
「きょうはしていない、トレーニングはしているんですけど、球場に来て練習はさすがにきょうはできなかったです。きのうはしています」
Q.まもなくスプリングトレーニングが始まるが目標は。
「まずはですね、今、フィジカルの状態が100%じゃないんですね。左足に1か所、右上半身に1か所、けががあって。動けないということではないんですけど、全力ではまだ動けないんです。これをどこまで上げていけるか、回復させられるか。
キャンプの初日の目標というのは、現役の時もこれはそうですけど、最低限、全力で走れること、投げられること。これができていれば、あとは実戦感覚なので勝手に上がっていくんですけど、それができていない状態でキャンプに入りたくない、今もそうなんです。キャンプ中がおそらく選手と最も関わる、時間的にも運動量的にも多いので、この状態で入ると不安がある状態です、今は。それを100%はなかなか、これから1か月ぐらいしかないから難しいと思うんですけど、そこと今、戦っています」
Q.ことしは阪神・淡路大震災から30年。
震災の経験が野球人生においてどんな影響をもたらしたか。
阪神・淡路大震災前のシーズン 仰木監督と(1994年9月)
「30年前のあの日を振り返ると、あの時期ですね…。プロ野球選手として、チームが結束することってなかなかないんですよ。当然ですよね、自分の結果を出さないとクビを切られちゃうから。春から秋まで、シーズン終了、日本シリーズが終わるまで結束できたのは、あの年だけだと思います。そんな経験はなかなかプロ野球選手はしないですよ。春は何となく希望を持っている、みんな希望を持っている。
だけどシーズンが始まると、当然結果が出てくるわけですから、盛り上がるチームもあれば勝てないチームは早い段階でモチベーションが下がっていく、なかなか結束できない。勝っているチームも、結局勝っているから結束していくという流れなんですよね。それは日本でもアメリカでも同じです」
「96年、翌年ですね、阪神淡路大震災の翌年、95年に達成できなかった日本一を目指してプレーしましたけど、じゃあ春先からできたかというとそうではなかったんですよね。夏を越してようやく勝つイメージができてくる、届きそうだ、それでようやく結束していく。プロ野球ってそういうものなんですよ。95年はそういう意味でも特別な年でした。プロ野球のチームが春から秋まで結束して結果を残す、日本シリーズでは負けてしまったんですけれど。それで…神戸の変わり果てた町並みを見た時に、自分たちに何ができるんだろうとみんな考えました。じゃあ現場に行って大変な人たちのお手伝いとかね。助けになることを現場に行ってやること、それもできたと思います。でも僕たちができるのは、やっぱりプロ野球選手としての使命というかね、当時。優勝するって、当時はまだオリックス・ブルーウェーブは優勝したことがなかったですからね。優勝なんて目標を春の段階では掲げてはいけないチームだったんですよ。それが思いが結束して、実際に結果として残った。
終わった時には、神戸のファンの方々、みんなから感謝されました。当初は野球なんかやっている場合じゃないという声もあったんです、僕らの中にもあったんですけど、プロ野球選手というのは、普通に生活していたらできないことを形にできる職業なんだという、すごくその実感があって。確かにファンの方々との向き合い方が大きく変わった出来事ではありました」
Q.自分自身がどこまでできるのか想像がついているか、選手と同じく毎年勝負か。
「選手と同じ気持ちかどうかはわからないですけど、僕にはどこにゴールがあるか分からないです。あした潰れるかもしれないし、10年後かもしれないし、その先かもしれないし、わからないです。今やっていることというのは、その日の限界を迎えること、これを繰り返しています。今、全力では動けないですけど、この状態で全力を目指しています、限界を目指しています。これを繰り返していくことで、アスリートの体がどうなっていくのかという、それを見てみたい興味がすごく強いんですね。
それは単なる1例でしかないんですけど、野球選手にとって何かヒントになることがあるんじゃないかということを期待しながら、今取り組んでいるということです」