ヴィッセル神戸 震災の年に生まれたクラブ “原点の継承” | NHK | WEB特集

「本当に怖くて、足がすくんで、助けに行くどころではありませんでした」サッカーヴィッセル神戸のスタッフが阪神・淡路大震災の経験を明かしました。1995年のあの日、命が絶えそうになった状況で何も出来なかった自分を責め続けてきました。震災から30年たって初めて選手に伝えることができた男性は当時の記憶に向き合いながら、“原点の継承”へ動き始めました。

(大阪放送局記者 細井拓)

1月8日、ヴィッセル神戸のことし最初の練習前に行われたミーティングで、1人のスタッフが涙を流しながら明かしました。

「目の前で生き埋めになっているおじさん、おばさんを見捨てるような感じで逃げてしまいました。本当に怖くて、足がすくんで、助けに行くどころではありませんでした。震災の恐怖に屈したというか。いまだに僕のどこかに引っかかって(毎年)その日が近づくと苦しくなります」

香川県出身の芝英幸さん(49)は、25年間クラブに勤めるベテランスタッフです。地元の自治体と連携した事業などを担当しています。当時、神戸大の2年生だった芝さんは神戸市灘区で震災を経験しました。米の販売店を営む夫婦の店舗兼自宅の2階に下宿していました。あの日の朝、これまで感じたことのない揺れで飛び起きて部屋の窓から何とか脱出しましたが、なぜか目の前には地面がありました。振り返って下宿先を見ると、大家さんの夫婦が寝ていた1階が潰れていました。芝さんは家族同様にかわいがってくれていた両親のような2人を助けることができなかったこの時から自分を責め続けました。大学卒業後、神戸で就職しましたが震災の影響もあって仕事に身が入らず離職。ヴィッセルのスタッフになったあとも震災と向き合えずにいました。

唯一、現実から離れられる時間がヴィッセルが戦う姿を見ているときだったといいます。

芝英幸さん

「正直、震災のことにはできるだけ目を向けないように過ごしてきました。ただ選手がボールを追いかける姿を見ると、震災を直視できなかった自分が勇気づけられるというか、背中を押されるというか、前に進もうという力が湧いてきます。ヴィッセルの選手のプレーにはそういう力があると思っています」

初めてクラブに経験を明かす芝さんの姿に選手やスタッフが涙をぬぐう姿が見られました。

昨シーズンのリーグMVP 武藤嘉紀選手(東京出身)

「当時、被災された方の気持ちを背負ってヴィッセルというチームは成り立っている。ピッチで熱い気持ちを出して感動やパワーを届けられるようなプレーをし続けたい」

山川哲史選手(兵庫県尼崎市出身)

「自分は震災を経験していないが芝さんの話は胸にぐっとくるものがあった。その経験や思いを受け継がないといけないし、ここまで支えてくれた神戸、兵庫の人たちに結果で恩返ししたい」

30年前の1月17日、ヴィッセルはクラブ創設後、最初の練習を予定していました。

しかし活動のスタートは市民とともに行う復興作業となりました。

選手やスタッフが総出で炊き出しや支援物資の運搬などをしました。練習場所を転々とし、クラブを存続できるかどうかも不透明な状況でした。

それでも震災から7年目となる2001年のシーズンには“キングカズ”とも呼ばれていた三浦知良選手が加入し「震災による想像を絶する痛みを決して忘れない」と神戸の人たちに寄り添いながら力を与えてくれました。

その後、成績の低迷などにともなって業績が下がり、Jリーグでは初めて民事再生法が適用されましたが、「楽天」の持ち株会社が運営を引き継いだことでクラブが存続できることになりました。

その後も2005年にJ2降格が決まるなど、幾度も訪れた苦難を乗り越えてきました。

クラブ創設30年を前に震災を経験した選手やスタッフはわずかになりました。

そうした中で、チームは天皇杯とJ1の初制覇、昨シーズンはJ1連覇だけでなく天皇杯との2冠を成し遂げて国内の強豪にまで成長しました。

芝さんはクラブが成長して目標を次々に達成していき、選手たちが苦しいトレーニングに耐えてプレッシャーに打ち勝つ姿に勇気をもらい、震災と向き合う決心をしました。

芝英幸さん「いまこそ、自分が震災当時の記憶や歴史を継承しなければならないと思いました。クラブが前を向いて進んでいく中で、自分だけが止まっているわけにはいかないという気持ちになりました。

過去を変える力はなくても、生きていれば未来はどうにでもなる。あのとき、助けることができなかった下宿先のおじさん、おばさんや震災で亡くなった人たちに対する自分なりの責任の果たし方があると思えました」

芝さんは震災から復興に向かう中で、ヴィッセルと市民がどのように関わっていたのかを調査して資料にまとめる取り組みを始めました。

当時、クラブの通訳を務め、現在は神戸市内で飲食店を営むクリスティアン・一色さん(52)、当時の育成責任者でのちに監督も務めた加藤寛さん(73)を訪ねました。

仮設住宅と練習場所が隣接していて住民と選手たちが交流したこと、多くのグラウンドが避難所や資材置き場に使われたことなど、2人の話に耳を傾けました。

集めた証言や資料は定期的に社員に伝えたり、若手の社員と一緒になってパネル展示を企画したりして、クラブの財産として残していくということです。

こうした取り組みの大切さは、震災後に生まれたスタッフなどにも着実に伝わり始めています。

広報部長を務める菅井悠香さんは、仙台に本拠地のあるプロ野球・楽天からの人事異動で7年前からヴィッセルで働いています。

芝さんから当時の神戸の話を聞いたことで、クラブへの思いが強まりました。

東日本大震災を経験した東北で感じていた人々の思いを踏まえて、スポーツができることをヴィッセルでも実践していきたいと考えています。

菅井悠香さん

「ヴィッセルが震災を経験し、そこから始まったことは知っていても、地域とクラブがどのように復興してきたかや、どのような人たちに支えられていたかまでは知りませんでした。当時を知っている貴重な先輩から思いを受け継いでいくことはクラブの未来にとって、とても大切なことで、これからも大事に伝えていかなければなりません」

芝英幸さん「震災と復興の歴史を知ることで、選手たちはサポーターが応援してくれている力の源がどこにあるのかを感じることができます。また選手たちの頑張りが震災を経験した神戸の人たちにとって、どのような力を与えるのかも知ることができます。

街とクラブの歴史を継承していくことが、もっと強くもっといいチームになることに、神戸の街がもっと元気で輝くことに、つながっていくと信じています」

芝さんがみずからの経験をクラブに伝える決心をしたきっかけにヴィッセルのサポーターが歌い継いでいる「神戸讃歌」がありました。

歌詞

俺達のこの街に お前が生まれたあの日どんなことがあっても 忘れはしない共に傷つき 共に立ち上がりこれからもずっと 歩んでゆこう美しき港町 俺達は守りたい

命ある限り 神戸を愛したい

震災から10年ほどたったころからサポーターが歌い継いでいるのがこの応援歌。

クラブによりますとシャンソンの名曲「愛の讃歌」を原曲に震災から復興に向かう思いを込めて歌詞がつけられたということで、試合前後などにスタジアムで大合唱されます。

この歌詞に象徴されるように、市民とクラブがともに力を合わせて震災を乗り越え、復興の道を歩んできた歴史とクラブに根づく“地域とともにある”という思いこそがヴィッセルの原点だと感じました。

(1月16日「列島ニュース」などで放送)

大阪放送局記者

細井拓2012年入局北海道、スポーツニュース部を経て2024年夏から出身地の大阪で初めての勤務サッカーや陸上などスポーツ取材を広く担当

素潜りや山登りなど北海道勤務時代に覚えた自然遊びが趣味

ページの先頭へ戻る

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *