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「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公は、数多くの作家・浮世絵師の作品をプロデュースし、江戸のメディア王となったツタジュウこと蔦屋重三郎(横浜流星)。コピーライターの川上徹也さんは「ツタヤと聞くと、現代のTSUTAYAや蔦屋書店を連想するが、創業者・増田宗昭氏は蔦重の子孫ではない。ただ、両者のビジネスには偶然では説明できない時代を超えた共鳴がある」という――。■ドラマ制作者の矜持を感じる「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)が始まりました。以前から主人公の蔦屋重三郎に興味を持ち調べ、商人としての「儲けのカラクリ」を書籍にまとめた経験もあるため、放送をとても楽しみにしていました。一方で、どのように描かれるのだろうという不安も抱いていました。蔦重(ツタジュウ)自身の生い立ちなどを示す資料は極めて少なく、ドラマでは多くの部分が創作になるはずだからです。 この原稿は第2話まで視聴した段階で書いていますが、今のところ期待をはるかに上回る面白さです。第1話「ありがた山(やま)の寒(かん)がらす」では、語り役の綾瀬はるかが演じる「九郎助稲荷」が花魁に化け、舞台となる江戸幕府公認の遊郭「吉原」についてスマホを使ってコンパクトに解説するという斬新な演出が印象的でした。 また、幼なじみの花魁・花の井(小芝風花)との関係性が、後の蔦重の生き方に大きな影響を与える展開が期待されます。蔦重が老中・田沼意次(渡辺謙)と出会い、「人気が落ちていた吉原を復興させる」という目標に目覚めるまでの流れにも説得力がありました。何より、華やかな吉原遊郭の「影」の部分を正面から描いている点に、ドラマ制作者たちの矜持を感じました。■第2話は蔦屋重三郎と平賀源内のタッグが見どころだった 第2話「吉原細見『嗚呼御江戸(ああおえど)』」では、吉原のガイドブック「吉原細見」に目をつけた蔦重が、その序文を当時マルチクリエイターとして人気のあった平賀源内(安田顕)に依頼しようと奮闘する様子が描かれていました。ドラマでも触れられていましたが、源内は「漱石香(そうせきこう)」という歯磨き粉を自虐的な宣伝文句でヒットさせるなど、現代で言えばコピーライターとしても有名な人物です。 史実としても、蔦重が初めて出版に関わったとされる「吉原細見『嗚呼御江戸』」の序文は、福内鬼外(ふくちきがい)(平賀源内の脚本家としてのペンネーム)が書いています。実際にどのような経緯で依頼したのかは不明ですが、ドラマでは「そうだったかもしれない」という物語が見事に構築されていました。「吉原細見」は、この後、蔦重が貸本屋から出版業界で成り上がるための重要な柱となっていきます。
当時、「吉原細見」は大手版元である鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が独占販売をしていましたが、やがて蔦重が独占販売するようになります。このガイドブックは毎年春と秋に改訂版が出され、そのたびに安定した売り上げが見込まれました。また、吉原の各店からの広告収入も収益の一部となりました。
■定期刊行のガイドブック「吉原細見」による安定収入 この「吉原細見」による安定収入を元手に、蔦重は大手版元が立ち並ぶ日本橋通油町へ進出。さまざまな作家や絵師とタッグを組み、「黄表紙」「洒落本」「狂歌絵本」「錦絵」など、数々のヒット作を次々にプロデュースして時代の寵児となっていくのです。 「べらぼう」を見た多くの人が「蔦屋」と聞いてまず思い浮かべたのは、レンタルビデオショップとして一世を風靡したTSUTAYA、そして代官山をはじめ函館、湘南、梅田、枚方、広島、銀座など全国各地に展開する蔦屋書店ではないでしょうか。これらはカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)およびその関連会社によって運営されています。■蔦屋重三郎とTSUTAYAは関係あるのかないのか まず事実をお伝えすると、蔦屋重三郎とCCCの間に血縁や事業継承などの直接的な関係はありません。また、創業時に蔦屋重三郎にあやかって名付けた名前でもありません。しかし、CCCの創業者である増田宗昭氏の歩みを振り返ると、蔦重を知らずにつけられた名前だとは思えないほど、多くのシンクロニシティがあることに驚かされます。 増田宗昭氏は1951年、大阪府枚方市に生まれました。同志社大学卒業後、アパレル会社「鈴屋」に入社し、軽井沢ベルコモンズ開発などのプロジェクトを担当します。その後退職し、1983年にTSUTAYA1号店となる「蔦屋書店枚方店」を創業。当時としては斬新だった、本・ビデオ・レコードを一つの店舗で扱うマルチパッケージストアとしてスタートしました。 では、なぜ増田氏は自身の店を「蔦屋」と名付けたのでしょうか? 実は、増田氏の祖父の家業の屋号が「蔦屋」だったのです。増田氏の祖父は「増田組」という建設業を営んでおり、近くの遊園地「ひらかたパーク」などの工事を請け負うのが主な業務でした。一方、副業として枚方の花街で「蔦屋」という置屋も営んでいたのです。 増田氏は新しい業態の店に名前をつける際、「マルチパッケージストア」といった説明的な名称よりも分かりやすい「書店」とすることがよいと考えました。その時、頭に浮かんだのが、とっくの昔に廃業していた祖父の屋号「蔦屋」です。「増田書店」より「蔦屋書店」とする方が歴史や文化を感じると考え名付けました。決して「祖父の家業を継いだ」というわけではなく、「蔦屋」という名前だけを借りたのです。
1号店を開業した当日、増田氏は友人から「こいつのこと知ってたか?」というFAXを受け取ります。それは広辞苑に載っていた「蔦屋」および「蔦屋重三郎」の項目のコピーでした。増田氏はこのとき初めて蔦重の存在を知りましたが、その後、「屋号は江戸の出版王・蔦屋重三郎にあやかった」と答えることが多くなったといいます。これは、祖父の置屋の屋号から取ったという説明よりも文化的な香りがすると考えたためです。また、祖父が蔦屋重三郎にあやかって「蔦屋」という屋号をつけた可能性もあると考えました。
■時代の空気にあった斬新なビジネスはツタジュウに通じる 翌年、増田氏は「カルチュアインフラを創り続けること」という理念を社名に込め、カルチュア・コンビニエンス・クラブを創業しました。増田氏の目的は、本屋やレンタルショップを作ることではなく、「世界一の企画会社を作る」ということでした。店はあくまで「企画作品」と位置づけられていました。増田氏が最初に作った企画作品である「蔦屋書店」は顧客から圧倒的な支持を受け、その企画を規格化した「TSUTAYA」は全国の多くの会社がフランチャイズとして参加する形で急速に広がりました。 その後もCCCは、時代の空気にあった斬新な作品を次々に発表していきます。まるで蔦重が喜多川歌麿(染谷将太)、山東京伝(古川雄大)、東洲斎写楽らと組んで、時代の空気にあった多様な斬新な作品を発表していくように。 1994年、「ないビデオはない」をコンセプトに掲げた都市型大型店「TSUTAYA恵比寿ガーデンプレイス店」をオープン。深夜遅くまで多くの客で賑わいました。1999年、渋谷ハチ公交差点の正面に、商品位置検索システム、音楽ダウンロード端末などの新サービスを取り入れた「SHIBUYA TSUTAYA」を開業。■増田氏は代官山に、ツタジュウは日本橋に店を出した 2003年、六本木ヒルズ内にスターバックスと一体化したBOOK & CAFE業態の「TSUTAYA TOKYO ROPPONGI」を提案。2007年からはTポイントサービス(現Vポイント)を開始。2011年には「代官山蔦屋書店」を中核とした「代官山 T-SITE」を開業し、大きな話題となりました。さらに2013年、佐賀県武雄市で蔦屋書店やカフェを併設した図書館の運営に参画。2015年、東京・二子玉川に「蔦屋家電」をオープン。近年では複数の出版社などを傘下に収め、出版・映像・音楽などのコンテンツ企画・制作をはじめ、さまざまな事業を展開する企業グループへと発展しています。
中でも2011年の代官山蔦屋書店のオープンは、最大のチャレンジでした。高級住宅地である代官山に広大な敷地と莫大な費用を投じて、新業態の書店をオープンする計画に業界関係者の誰もが懐疑的でした。増田氏が出店計画を役員会議に提出した際、全員が反対したといいます。それでも増田氏は信念を貫き通し、「株主に説明できない」という理由で上場を廃止してまで、このオープンにこぎつけました。
■江戸と令和、時代を超えてシンクロする「二つの蔦屋」 業界関係者の予想に反して、代官山蔦屋書店は幅広い層の人々に圧倒的な支持を受けました。それまでややもすれば安っぽいと見られていたTSUTAYAのイメージを一新し、CCCの代表作ともいえる企画作品となったのです。その後も函館、湘南、梅田、枚方、広島、銀座など、日本全国にさまざまな形態の蔦屋書店を展開していきました。 創業当初は蔦重のことを全く知らなかった増田氏も、「蔦屋の由来は蔦屋重三郎ですか?」と問われることが増えるにつれ、次第に蔦重に興味を持ち調べるようになりました。実際、「蔦重」と「蔦屋書店」には驚くほど多くの共通点があります。増田氏自身もその著書で次のように語っています。■共通点が多すぎて「ほとんど他人の気がしない」と増田氏 「(蔦重のことを)知れば知るほど、自分との共通項の多さに驚かされる。最近ではもうほとんど他人の気がしないほどだ。レンタルとセルを組み合わせた商売が出発点だったと聞くに至っては、私が『TSUTAYAの名は蔦屋重三郎にあやかったものではない』と言っても、逆に誰も信じないのではないかとさえ思われた」(『知的資本論』より引用) 実際、両者のビジネスモデルは偶然の一致と思えないほど似ています。蔦重の出発点は吉原での貸本屋でした。TSUTAYAもまず成功したのはビデオのレンタル事業で、ここに共通点があります。また「本を入り口に、さまざまな文化・アートを企画し、世の中に広めていこうとする」という部分も共通点が見られます。
蔦重がさまざまな作家や絵師をプロデュースできたのは、「吉原細見」という安定したストックビジネスがあったからです。同様に、CCCが発展した背景には、フランチャイズ事業からの安定した収益が大きな役割を果たしていました。安定した収入があったからこそ、大きなチャレンジが可能だったのです。
■業界の寵児ゆえ同業者などからたびたび批判を受けてきた これまで述べてきたように、蔦屋重三郎とTSUTAYAには血縁や直接的なつながりはありません。しかし、江戸時代と昭和・平成・令和という異なる時代において、大衆が求めるものをいち早く察知し、文化を広めていったという点で共通しています。蔦重が「江戸を代表するプロデューサー」だとすれば、増田氏は「平成を代表するプロデューサー」の一人だと言えるかもしれません。 ただ、この原稿には書いていませんが、蔦重も増田氏も大きな失敗を数多く経験しています。同業者などからたびたび批判をうけ、毀誉褒貶(きよほうへん)が多いということも共通しています。またその逆境を乗り越えて「誰もみたことのない作品」に立ち向かうエネルギーの強さこそが、一番似ていると筆者が感じるところです。■増田社長が退いたCCCの新ビジネスは成功するか 2023年4月、CCCでは増田氏から髙橋誉則氏に社長が交代しました。翌年、髙橋氏は代表取締役社長兼CEOに就任し、増田氏は代表権のない会長となり、経営の一線から退きました。髙橋氏は新卒でCCCに入社後、子会社の社長を務めるなど活躍しましたが、2018年に一度退社し、3年間の主夫生活を経て2021年に復帰したという経歴の持ち主です。増田氏とはまったく異なる視点で、CCCの新しい作品を発表していくことでしょう。 新体制となった2024年4月には、「好きなもので、世界をつくれ。」をテーマに「SHIBUYA TSUTAYA」をリニューアルオープン。推し活の殿堂ともいえる、全く新しい作品となっています。 大河ドラマ「べらぼう」をきっかけに、蔦重とTSUTAYAの関係に興味を持つ人も増えることでしょう。偶然の一致から始まったこの二つの「蔦屋」は、時代を超えて共鳴し、人々の暮らしを「文化」で豊かにする精神が宿っているのかもしれません。———-川上 徹也(かわかみ・てつや)コピーライター、湘南ストーリーブランディング研究所代表大手広告代理店を経て独立。『物を売るバカ』(角川新書)『あの日、小林書店で。』(PHP文庫)など著書多数。海外6カ国にも20冊以上が翻訳されている。
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プレジデントオンライン
最終更新:1/20(月) 18:17